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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)7582号 判決 1984年6月21日

原告 甲野太郎

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 清水芳江

被告 国

右代表者法務大臣 住栄作

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 武内光治

右被告国指定代理人 中村正俊

<ほか二名>

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告ら各自に対し、各金八〇〇万円及び右各金員に対する昭和五〇年八月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨の判決及び担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  被告国は、東京都世田谷区太子堂三丁目三五番三一号において、一五歳以下の小児のみを対象とする国立小児病院を開設運営し、被告岡田良甫(以下「被告岡田」という。)は、神経科担当医師として同病院に勤務していた者である。

訴外甲野一郎(以下「一郎」という。)は、昭和三八年六月二六日、原告らの間に生まれたが、昭和五〇年八月三日死亡した。

2  一郎が死亡するに至る経緯は以下のとおりである。

(一) 一郎は、一歳六か月位までは順調に発育しているとみられたが、ひとり歩きの開始が一歳九か月とやや遅れ、話し始めが三歳と遅く、運動の面で不器用なところや手と足とを同時に動かすことが円滑に行えないというような異常があった。

しかし、知能面においては一郎に異常は見られず、理解力は年齢相当に発達しており、ただその表現において普通児と比較して差異がみられた。

一郎は、四歳時には通常の幼稚園の入園テストに合格し通園していたが、やはり普通児に比較すると劣っていることは明らかであった。

原告らは、一郎に右のような異常があることは認識していたが、これが精神、神経科医の診察を要するものとは考えていなかったし、家庭医や幼稚園関係者からその必要性を指摘されたこともなかった。

(二) しかし、一郎は、昭和四三年四月二〇日頃になって、突然右半身麻痺の症状が表われてきた。一番最初に表われたのは唇であって唇が引きつれるようになった。これに気づいたのは、同月頃、一郎が庭で転倒し、右下顎を三針縫う裂傷を負った直後であり、当初はその怪我のためであると思われたが、これが治癒した後も唇の引きつれが戻らず、そのうち右手右足にも麻痺が表われてきたため、家庭医である玉城医師の紹介により、同年六月二五日、昭和大学病院で受診した。

(三) 昭和大学病院では、原告らの主訴により脳腫瘍を疑い、検査のため同月二九日から同年七月二七日まで入院した。

同病院の松井教授は、同年六月二六日、一郎を診察し、右半身麻痺、言語障害及び歩行障害を認めている。

一郎は、入院中に、頸動脈写、椎骨動脈写、髄液検査、知能検査、脳波検査、眼科検査等の検査を受けたが、脳腫瘍の存在は認められなかった。但し、前大脳動脈はかなり細いとのことであった。また知能検査の結果は、IQ九〇、知能年齢四歳七か月であり、やや遅れてはいるが正常の範囲であった。

検査の結果、一郎は脳循環障害と診断され、二週間毎に通院して治療を受けることになった。投薬は、通院毎に二週間分の処方を受け、同年八月九日には、ガミベタール(脳代謝調整剤)、エンボール(脳代謝機能改善剤)、ビタメジン(ビタミン剤)、同月三〇日には、ビタメジン、ガミベタール、ルシドリール(脳代謝機能改善剤)、同年九月一三日から同年一〇月一一日までビタメジン、ルシドリール、イノシー(細胞賦活剤)、同年一一月一日から同年一二月六日までビタメジン、ルシドリール、イノシー、カリクレイン(血管拡張剤)、同月二七日、昭和四四年一月一〇日にはビタメジン、ルシドリール、イノシー、同月三一日から同年六月九日までビタメジン、ルシドリール、イノシー、カピラン(脳末梢血流改善剤)、同年七月四日から同年八月二二日まではビタメジン、ルシドリール、イノシー、ホリゾン(精神安定剤)がそれぞれ処方されている。

投薬の結果、一郎の麻痺はしだいに軽快してきた。昭和四四年一月頃、インフルエンザに罹患したため昭和大学病院受診以前の状態に戻ったが、その後再び軽快の方向に向かってきた。一郎は、ガミベタール、カリクレインを投薬された際には症状がやや悪化するようにみられたが、それ以外には改善の方向にあり、特に、ルシドリールとカピランを併用してからは明らかに回復が認められ、歩行も器用になってきた。

(四) 右のとおり、一郎の症状は軽快の方向にあったが、その速度が遅かったため、より急速な症状の改善を求め、昭和大学病院の医師の紹介を得て、同年六月一八日、一郎は国立小児病院で被告岡田の診察を受けた。次いで、一郎は、同年九月一七日、被告岡田の第二回目の診察を受けたが、その際、被告岡田から脳性麻痺と診断され、抗けいれん剤(抗てんかん剤)であるアレビアチン、クランポール等の投薬を受けた。

ところが、投薬開始から一か月を経ずして、一郎は平衡感覚失調、舌突出等の異常不随意運動等の症状を表わすようになった。同友会クリニックの新保修二医師は、同年一一月一日、一郎の脳波検査をした際、一郎の症状として、四肢の強直性麻痺、舌突出、発語不能、介助なくして身のまわりの処置不能、歩行困難の状態にあったとしている。

このため、原告甲野花子(以下「原告花子」という。)は、同年一〇月ないし一一月頃、被告岡田に対し、一郎の右症状を告げて指示を仰いだが、被告岡田からは、服薬を続けて様子をみるようにと告げられたのみであった。さらに、同年一二月八日の診察日にも、被告岡田は一郎の症状について注意を払っている様子は見られなかった。一郎は、それまで、症状が悪化するので服薬を中止していたが、処方が変わったというので服薬を再開したところ、再び症状が悪化してきたため、同月一八日以降服薬を中止した。

原告花子は、再度、被告岡田に診察を依頼したところ、宿直日でよければ診察すると言われ、同月二〇日午後六時頃、宿直室で面談した。この時、被告岡田は、一郎が薬の過量症状であると述べ、入院させて検査することを約した。一郎は、昭和四五年一月二八日、国立小児病院に入院し、再び投薬を受けたが、このときも服薬により一郎の症状は悪化した。

その後、一郎は、同年三月一一日、被告岡田の診察を受け、投薬の処方を受けたが、これが国立小児病院での最後の受診となった。

(五) 一郎は、国立小児病院の受診を止めた後、昭和四五年四月上旬頃、同友会クリニックの新保修二医師に相談し、同医師から一郎の身体に合う薬を見つけるため種々の抗けいれん剤の投与を受けたが、いずれも一郎の症状を悪化させるのみであったので服薬を中止し、結局、ルシドリール、ビタメジンが一郎の身体に合っているとしてこれを服薬することになった。その後、一郎は、同年六月から昭和四九年七月まで、佼成病院小児科の中島春美医師の診察を受け、同年九月から昭和五〇年七月一郎が肺炎にかかるまでは同愛会病院小児神経科の中島光清医師の診察を受けている。この間、昭和四五年七月頃、中島春美医師から、一郎の症状は錐体外路障害である旨告げられ、昭和四七年五月、同医師からその治療のため、Lドーバを処方された。しかし、これも症状が悪化するため、一週間ほどで服薬を中止し、同年一〇月以降は錐体外路障害に対する一切の服薬を中止した。

(六) 一郎は、昭和四五年四月、心身障害児のための義務教育機関である江戸川養護学校に入学した。一郎は、在学中、学習面は学年相当に習得できたものの、障害悪化のため言語能力はしだいに低下してゆき、知識を獲得しても、これを表現する手段を奪われていった。

一郎は、錐体外路障害のため、下肢の機能は失なわれ、全く歩行ができなくなり、車椅子に頼る生活を余儀なくされた。上肢の機能も失なわれ、自らは、食事、着脱衣、洗面、入浴、書字画等一切の行為ができず、看護者の介助を必要とした。一郎は、顔面筋不随意運動症状のため、昭和四七年春頃から咀しゃく嚥下が著しく不随意となり、昭和四九年秋からは、自ら飲食物を咀しゃく嚥下することができず、看護者から流動食をのどの奥に流し込んでもらうことにより、かろうじて栄養の補給がなされるような状態となった。また、右症状のため、発音不明瞭で自らの意思を伝達することができず、かろうじて原告花子がこれを察することができるのみであった。

一郎は、昭和四五年秋頃から喘息発作を起こすようになったが、錐体外路障害のため開口舌突出状態となり、気管を痛め、しばしば喘息症状が悪化し、また、病菌が体内に入りやすいため、しばしば風邪、肺炎にも罹患した。

一郎は、右のような状態のためしだいに体力が低下し、昭和五〇年七月三一日、肺炎にかかり、同年八月三日午前七時一五分、そのため死亡した。

3  以上のような経過からみると、一郎は、錐体外路障害のため死亡したものというべきであるが、その錐体外路障害は、被告岡田の処方投薬した抗けいれん剤により発症したものである。すなわち、

(一) 一郎は、昭和大学病院で診察を受けるまで微細脳障害と思われる症状はあったが、てんかんを疑わせるような症状はなかった。その具体的症状は前記2記載のとおりである。

微細脳障害とは、知能は正常であるが、学習と行動に異常がみられる障害であって、その主な症状は歩行の異常、言語機能の発達遅滞等である。微細脳障害は、神経学的検査では異常が発見されず、脳の器質的損傷は認められないが、患者を観察していると異常を発見することができる。そして、知能テストをすると、言語性指数よりも動作性指数の方が低く、全体としてはほぼ正常値を示す。また、脳波に異常がみられることが多い。微細脳障害に対し、抗けいれん剤を使用するとかえって症状を悪化させることが多い。微細脳障害の自然治癒率は五〇パーセントほどであり、一〇歳くらいまでにはだいたい落ち着くものとされている。治療方法としては薬物よりも環境の改善や訓練の方が効果的である。

(二) 昭和大学病院においては、前記のとおり、一郎を脳循環障害と診断し、脳代謝機能改善剤、血管拡張剤等を投与した結果、治療効果が上がっていた。

(三) しかるに、国立小児病院では、一郎は脳性麻痺と診断され、抗けいれん剤の処方を受けた。すると、一か月とたたないうちに、一郎は、平衡感覚失調、四肢の強直性麻痺、舌突出、発語不能、歩行困難等の錐体外路障害の症状を示すようになった。これらの症状はそれまでになかった症状である。

(四) 抗けいれん剤にはいずれも副作用がある。

特にアレビアチンは副作用が強く、これによって薬物性の錐体外路障害が起きることは、昭和三〇年代から医学雑誌で既に紹介されており、アメリカ合衆国保健教育厚生省公衆衛生局食品医薬局の集計表によると、アレビアチン〇・〇二グラムをわずか一日服用しただけで錐体外路障害を起こした例がある。

クランポールは、発売当初、効能書には重篤な副作用症状の報告例はないと記載されていたが、昭和四七年六月一六日以降の効能書には明らかに錐体外路障害とみられる副作用を記載するようになっている。また、医学雑誌には、早くからクランポールにも種々の副作用があることが報告されており、そのうちには、錐体外路障害とみられる症例も含まれている。

薬物による錐体外路障害の場合、発現の初期に抗けいれん剤の服薬を中止すれば症状は消滅するが、服薬を継続すると非可逆的障害に進み、もはや服薬を中止しても障害は消滅しない。症状の特徴は、不随意運動であり、非可逆的障害の場合には年月の経過とともに症状は進行悪化し、遂には廃疾者となり、自力による栄養摂取、起居動作ができないため、わずかのことで肺炎等の合併症を併発して死亡に至る。錐体外路障害に対する治療薬としては、Lドーパが開発されたが、これは、老人性錐体外路障害に対しては著しく効果を表わすものの、薬物性錐体外路障害に対しては効果がなく、かえって症状を悪化させる場合が多い。

以上の事実からみると、一郎の錐体外路障害の原因は被告岡田の投与した抗けいれん剤以外には考えられず、これにより発症したものであることは明らかである。一郎の錐体外路障害はクランポールにより発現し、その後投与されたアレビアチンにより症状が悪化し、併用薬であるネルポン、コゲンチン、セルシン等により症状を増幅させたものである。

4  一郎の錐体外路障害の原因となった抗けいれん剤の投与は、以下のとおり被告岡田の過失によるものである。

(一) 前記のとおり、被告岡田は一郎を脳性麻痺と診断し、抗けいれん剤を処方したが、右診断は、一郎が昭和大学病院で脳循環障害と診断され、その方向での治療が効果を上げていたことからみても誤りである。

被告岡田が一郎に対してした診察、検査はきわめて簡単かつ粗雑なものであり、その結果判定にも重大な誤りがある。一郎に骨発達年齢の遅滞はなく、生活能力検査についても、知能面と行動面とにアンバランスがあるのにこれを区別せず知能低下と判断したのは重大な誤りである。また、外見所見についても、単に異常箇所を指摘するのみで、その異常の内容についての観察を怠っている。

(二) 抗けいれん剤(抗てんかん剤)の投与にあたっては、患者の症状がてんかんであるかを慎重に判断しなければならない。抗てんかん剤は、前記のように副作用を持つものであり、患者が脳循環障害を有する場合には、その症状を悪化させる危険がある。また、抗けいれん剤を使用する場合でも患者に適合した薬剤を使用すべきであり、投与にあたっては、一度に多量長期に処方せず、少量短期間処方し、患者への適合性、副作用の有無を十分観察しながら投薬すべきである。

ことに、アレビアチンは前記のとおり副作用が強く、その服用により錐体外路障害が生ずることは昭和三〇年代から紹介されており、クランポールについても、早くから錐体外路障害と認められる症例が報告されているのであるから、これらの薬剤を投与するにあたっては、錐体外路障害の症状の有無を注意しながら投与し、症状が発現したときは直ちに投与を中止しなければならない。

(三) 一郎は、国立小児病院における診察、検査によっても、脳波に異常を認める以外てんかんを疑うに足りる症状は認められていない。脳波検査によって発作性異常波が認められたとしても、ただ一回の脳波検査によって現われた発作性異常波をてんかん性のものであると判断することはできない。脳波異常はてんかんの場合にのみ現われるものではなく、頭蓋内の種々の生理的変化や病的状態によって生ずるものであるから、てんかんであるか否か鑑別診断を慎重に行なわなければならない。一郎は、昭和大学病院において入院時及び昭和四四年二月一九日脳波検査が行なわれたが、いずれも異常はなかった。国立小児病院診療時の脳波検査についても、投薬前には一回しか行なわれておらず、このとき現われた異常波は昭和四四年一一月一日に消失しており、以上のことからみても、右異常波がてんかん性のものであるとはいえない。従って、一郎に対しては抗けいれん剤を投与すべきではなかったのである。

抗けいれん剤はてんかん発作を抑制するために投与すべき薬剤であって、てんかんの症状が現われていない者に対し、これを予防するために投与すべき薬剤ではない。被告岡田がてんかん予防のため一郎に抗けいれん剤を投与したとすれば、医師としてあるべからざる治療方法である。

また、抗けいれん剤の投与が許されるとしても、クランポールやアレビアチンは、重篤なてんかん患者に対して他剤では治療効果がない場合にのみ使用が許される薬剤であって、当初から投与すべき薬剤ではない。

さらに、抗けいれん剤の投与方法についても、被告岡田は患者に対し約三か月に一回診察するのみで、それ以外には一切患者と面会しないし、相談にも応ぜず、一郎の場合、昭和四四年九月一七日の診察日に二八日分宛の処方箋三枚を渡され、次回診察日を同年一二月八日と指定されている。この間八四日間にわたり、一郎は投与された薬剤が一郎に適合しているか否か何ら医師の観察もされずに放置されたのである。このような治療方法は、抗けいれん剤投与の初期段階としては到底許されない。

被告岡田は、原告花子からの副作用発現の連絡も無視し、第二回診察日である同月八日の診察の際にも一郎に対する観察を怠り、一郎が前回の診察日とは著しく異なる症状を示し、明らかに抗けいれん剤による副作用症状が現われているにもかかわらず、これを見過ごし、漫然と抗けいれん剤を投与し続けた。

前記のとおり、被告岡田は、原告花子の再度の要求により、ようやく同月二〇日面会に応じ、薬の過量症状を認め、入院による検査を約した。その結果、一郎は、昭和四五年一月二八日から同年二月二八日まで国立小児病院に入院して検査を受けたが、被告岡田又は検査担当医師は、当時、一郎に錐体外路障害が発現し、その特徴である不随意運動、寡動、運動失調、ジストニア(筋収縮)を示しているにもかかわらず、これを見過ごし、一郎を身体麻痺の方向からのみ判断しようとし、診断を下せないとなると、粗雑な検査方法のため真実を反映しない視力検査、生活能力検査、手骨レントゲン写真を基にして、先天性奇形であるとかシルダー病とかの疑いを一郎に冠したのである。右各検査がすべて誤りであることは、転院後の医師の観察や江戸川養護学校における成績表等からみて明らかである。被告岡田は、右誤った検査及び判断により、一郎に抗けいれん剤の投与を続け、症状をさらに悪化させたのである。

以上のとおりであって、一郎に対する検査、診断、抗けいれん剤の投与及びその方法のいずれの点においても、被告岡田には重大な過失があり、一郎は、被告岡田の右過失により錐体外路障害に罹患し、そのため死亡するに至ったのである。

5  一郎が受けた被害の重大性に鑑みれば、一郎が錐体外路障害に罹患し、死亡したことによる損害の算定にあたっては、精神的、肉体的、経済的なすべての損害を包括したものとしてこれを把握すべきであり、これを金員に換算すれば五〇〇〇万円を下ることはない。

原告らは、一郎の相続人として、右損害賠償請求権を各二分の一の割合で相続した。本訴においては、そのうち各五〇〇万円を請求する。

6  一郎が錐体外路障害に罹患し、死亡したことにより原告らが受けた精神的打撃を金員に換算すれば各三〇〇万円を下ることはない。

7  よって、原告らは、それぞれ被告岡田に対しては民法七〇九条により、被告国に対しては同法七一五条により、損害賠償金各八〇〇万円の支払い及び右各金員に対する一郎死亡の日である昭和五〇年八月三日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2の事実について

(一) 同(二)の事実のうち、一郎が昭和四三年六月昭和大学病院で受診したことは認める。

(二) 同(三)の事実のうち、昭和大学病院では脳腫瘍を疑い、検査のため入院したが、脳腫瘍の存在は認められなかったこと、その後、ルシドリール、イノシー、ビタメジンを服用したことは認めるが、一郎の症状が軽快の方向に向かってきたことは否認する。

(三) 同(四)の事実のうち、一郎が昭和四四年六月国立小児病院で受診し、その後被告岡田の診察を受け、抗けいれん剤であるアレビアチン、クランポールの投薬を受けたこと、原告花子が被告岡田に指示を仰いだこと、被告岡田が昭和四四年一二月八日に一郎を診察したこと、一郎が昭和四五年一月二八日国立小児病院に入院し、再び投薬を受けたこと、一郎は、同年三月一一日被告岡田の診察を受け投薬の処方を受けたが、これが国立小児病院での最後の受診となったことはいずれも認める。

被告岡田が一郎を脳性麻痺と診断したこと、昭和四四年一二月八日の診察日にも被告岡田が一郎の症状について注意を払っていなかったこと、投薬により一郎の症状が悪化したこと、被告岡田が同月二〇日に一郎が薬の過量症状であると述べたことはいずれも否認する。

(四) 同(六)の事実のうち、一郎が昭和五〇年八月三日死亡したことは認めるが、一郎の症状が錐体外路障害であることは否認する。

3  同3の事実のうち、一郎が錐体外路障害のため死亡したこと、一郎の錐体外路障害の原因が被告岡田の投与した抗けいれん剤以外には考えられず、これにより発症したものであることはいずれも否認する。

4  同4のうち、被告岡田に過失があるとの主張は争う。

5  同5の事実のうち、原告らが一郎の相続人であることは認めるが、その余は争う。

6  同6は争う。

三  被告らの主張

1  国立小児病院外来受診までの経過について

(一) 一郎は、生後六か月目に白色便下痢症にかかり、消化不良性中毒症となった。成育の過程で歩行と発語が遅れ、寝返りは生後一一か月目頃から、ひとり歩きは一年八か月目頃からできるようになったが、歩行開始時、右上下肢運動の異常があった。

その後、一郎は、昭和四三年四月、路上で転倒し、頭部打撲と顔面を外傷し、下顎の外傷を三針縫合した。その翌日から、一郎は右上下肢運動の障害が一層増大し、流涎と開口時の舌突出、顔面麻痺がみられた。同年五月頃までには右手の麻痺も増強し、右肘関節で屈曲位をとり、母指、第二指も不自由となった。

(二) そのため、一郎は、同年六月昭和大学病院整形外科で受診し、ついで同病院脳外科で受診し、脳腫瘍を疑われて入院し、脳血管撮影を受けたが、椎骨動脈及び内頸動脈血管写でこれを認める所見がなく退院した。その後、ルシドリール、イノシー、ビタメジンを服用し、二か月後流涎がとまり、右手屈曲も消失した。

しかし、昭和四四年一月、摂氏三九度の発熱が一〇日間続き、インフルエンザと診断され、その後、独歩困難となり、前記各症状もさらに増悪してきた。このため、一郎は同病院から国立小児病院に紹介されてきた。

2  国立小児病院での診察、検査及び治療について

(一) 一郎は、同年六月四日、国立小児病院小児科で堀誠医長の診察を受けた。堀医師は、一郎に対し、問診、視診、触診、聴診等を行い、その結果、

(1) 右半身麻痺、特に右上肢、右顔面麻痺

(2) 言語障害

(3) 咀しゃく、嚥下、発声等の協同運動拙劣、流涎過多、舌突出

(4) 知能障害

(5) 視力障害

等を認めたため、頭蓋骨、手根骨のX線撮影と脳波検査及び神経科の受診を指示した。

同年七月二五日の脳波検査で、一郎は、左側頭頂部にてんかん性発作波を認めた。

(二) 一郎は、同年八月二〇日、九月一七日、一〇月一五日、一一月二六日、一二月八日にそれぞれ国立小児病院神経科外来で、被告岡田の診察治療を受けている。

一郎は、同年八月二〇日に行った牛島式生活能力検査では、生活能力指数が六二(正常値は九〇ないし一一〇)であり、右半身麻痺(痙直性運動麻痺)及び右側中枢性顔面神経麻痺があった。同年一一月一日行なわれた脳波検査では、右中心部にてんかん性発作波が、左側頭部に電気活動抑制波(低電圧波)がみられた。このようなてんかん性発作波の出現や知的活動性の水準が高くないことから、大脳皮質の障害が推定された。流涎が著しく、これが顔面神経症状のみならず、他に自律中枢の機能異常を伴っている可能性を考えた。脳神経領域では、五(三叉神経)、七(顔面神経、右顔面神経麻痺がみられ、軽度の顔面非対称があり、右口角がゆがんで下降していることから、流涎過多もこれに関連しているものと考えた。)、九(舌咽神経、軟口蓋弓の非対称所見から)及び一〇(右側迷送神経、開口時に口蓋垂が左側に偏りをみせることから)の明らかな異常を認め、一一(副神経、右側前頸筋胸鎖乳突筋が弱いことから)及び一二(舌下神経、舌突出に際し、舌が右側に曲がることから)に軽度の異常を認めた。

以上から、被告岡田は、一郎に対し、てんかん性発作波の改善のため次のような投薬をした。なお、パーキンソニズム治療剤は、パーキンソニズムの治療のためではなく流涎軽減の目的で投薬したものである。

(1) 同年九月一七日に次のものを一日分(三回分服)とする薬剤二八日分を処方

コゲンチン(パーキンソニズム治療剤) 一・二ミリグラム

硫酸アトロピン(副交感神経遮断剤) 〇・一二ミリグラム

ネルボン(催眠剤兼抗けいれん作用) 一・六ミリグラム

クランポール(抗てんかん剤) 〇・四グラム

エンボール(脳代謝機能改善剤) 一〇〇ミリグラム×二錠

ノイロビタン顆粒(向神経ビタミン剤) 〇・五グラム

ATP顆粒 〇・五グラム

(2) 同年一〇月一五日、一一月二六日に同一処方にて各二八日分

その後、一郎の症状に著しい改善がないまま経過し、流涎が多く、嚥下障害があり、右顔面麻痺もあるため、同年一二月八日次のように処方の変更を試みた。

(3) 次のものを一日分(三回分服)とする薬剤二八日分

ガミベタール(脳代謝調整剤) 一・〇グラム

ハイロング(精神神経用剤) 三〇ミリグラム

パンカルG(パントテン製剤) 〇・七グラム

アレビアチン(抗けいれん剤) 〇・〇五グラム

クランポール 〇・三グラム

パントシン(代謝性剤) 二〇〇ミリグラム

ガミベタールは、脳代謝を改善して間接的に流涎過多の対策を図るためである。また、脳波検査で再度てんかん性発作がみられたためクランポールを減量し、アレビアチンを少量加えた。この組み合わせ処方により脳機能改善を期待するとともに、咀しゃく、発音、発声等の障害がやや進行しているように思われたため、けいれん状態が発生しないようにする必要を感じたためである。

(三) しかし、一郎の症状は改善されなかったため、一郎は、精密検査を受けるため、昭和四五年一月二八日から同年二月二八日まで国立小児病院神経科に入院し、藤田長久医師の担当の下で髄液検査、一般血液検査、生化学検査(一般生化学、フェニールアラニンその他先天代謝異常スクリーニング検査)、肝機能検査、内分泌検査、指紋検査(先天性異常の有無発見のため)、レントゲン検査等を行った。

右諸検査の結果、以下の異常が一郎に認められた。

(1) 運動障害

右上肢麻痺()、右下肢麻痺(+)(いずれも痙性麻痺)、顔面神経麻痺があり、右手の使用が困難であった。

(2) 脳神経領域の異常

構音障害、嚥下障害、流涎過多を主とし、ストローによる吸飲も困難であった。眼底には球後視神経炎の所見として、境界不鮮明、充血、血管迂曲著明な変化、血管壁白鞘等の変化がみられた。視力は〇・一及び〇・三で視野の測定は不能であった。

(3) 知能低下

診察時の精神活動の状態から判定した。他方、牛島式生活能力検査の成績を参考にした。

(4) 奇形性要素

小指の内彎症と異常皮膚紋理が認められた。

(5) 内分泌検査

コレステロール値は正常範囲の上限で、CPK(クレアチンフォスホキナーゼ)が一過性に上昇し、手根骨X線像で化骨遅滞が著しく(暦年齢五歳一一月時で骨年齢一歳八月)、甲状腺機能低下症が疑われたが、アイソトープ摂取は正常で、PBI値(ヨード結合蛋白)も正常であった。他方、メトロピンテストの結果、下垂体機能予備能の低下が推測された。

(6) 脳波異常

昭和四五年一月三一日の検査ではてんかん性発作波は消失していたが、左側頭部と右後頭部に低電圧波が認められた。但し、同年二月五日の脳波検査では異常を認めていない。

以上の所見及び先天代謝異常スクリーニングテストからは、積極的に一郎を代謝性疾患と判断することはできなかった。

被告岡田は、同年一月二九日から同年二月一六日まで、一郎に対し、以下のものを一日分(三回分服)として処方投薬した。

クランポール 〇・四グラム

ガミベタール 一・〇グラム

セルシン 二・〇ミリグラム

ノイロビタン顆粒 〇・四グラム

(四) 退院後、同年三月三日、一郎は風邪のため国立小児病院の診察を受けた。さらに同月一一日、一郎は同病院神経科外来で受診し、被告岡田の診察を受け、次のものを一日分(三回分服)として二八日分の処方を受けた。

総合ビタミン 〇・五グラム

トノフォスファン 〇・一グラム

セレモン脳代謝促進剤 一・三グラム

チレオイド(乾燥甲状腺、甲状腺ホルモン剤) 〇・〇一グラム

(五) 一郎は、外来、入院を通じて脳及び脳神経機能の改善がみられず、神経症状の進行性がみられること、脳腫瘍が否定されたこと、両親が血族結婚(母方祖父と父方祖母が兄妹)であること等から、それ以外の進行性脳疾患を疑う必要があった。一郎は、生後六か月のとき消化不良性中毒症となり、昭和四三年四月に頭部外傷の後、顔面神経麻痺、流涎、右半身麻痺があらわれ、さらに、昭和四四年一月にインフルエンザに罹患した後、独歩困難となり、右手麻痺も増強したことから脳変性疾患が考えられ、感染及び外傷等によってさらに病状が進行したと考えられた。一郎の症状は、徐々ではあるが進行しているので一般的な脳性麻痺の定型例とは考えられなかった。脳変性疾患には多くの種類があり、鑑別診断は死後の剖検によってなされるのが現状であるが、一郎の場合、シルダー病の近縁疾患の初期と推測されたものの、症状は定型さを欠いていた。そのことから非定型性シルダー病の疑いを推定診断としており、その後の神経学的変化や特徴の出現に伴って推定診断は変わる可能性も考えられた。

しかし、その時点では一郎の症状を脳性麻痺とみて矛盾がなく、また、家族の不安を解消する配慮から、被告岡田は、同月一一日、原告花子に対して広義の脳性麻痺に相当する旨説明した。一郎の診断は以上のとおり困難であったが、脳変性疾患は臨床経過を充分追跡してゆけばその種類などもある程度区別できると考え、一郎に対し継続的に来院を求めた。しかし、それ以降来院しなくなった。

(六) その後、昭和四九年八月頃、原告花子が一郎の今後の治療の相談のため来院し、一郎は、佼成会病院小児科の中島医師の治療を受けている旨告げた。そこで、国立小児病院から中島医師に電話で照会したところ、同医師は脳変性疾患を疑っているが、治療薬については何が良いか分らないのでパーキンソン病薬のLドーパを使用しているとのことであった。

3  一郎の症状及びその原因について

(一) 原告ら主張の微細脳障害症候群は、知能が正常であるのに動作が不器用であって、行動面で多様性を伴ったきわめて軽度の大脳皮質の症状を呈する異常を指すのであり、一郎の症状とは明らかに異なる。一郎は国立小児病院初診時、右側の上下肢麻痺、脳神経麻痺がみられ明白な脳障害があったのであり、それ故に昭和大学病院で脳腫瘍を疑われたのである。一郎の症状は原告ら主張のような微細な症状ではない。

(二) 原告らが、一郎に、国立小児病院での投薬後出現したと主張する症状から、一郎が錐体外路障害であるということはできない。錐体外路症候群の症状の主なものは不随意運動であり、これに加えて流涎がある場合もあるが、一郎については、国立小児病院入院時の診察及び新保医師の診察時にも不随意運動は認められていない。不随意運動又はパーキンソン症状を伴なわない流涎をもって錐体外路症候群の症状と判断することは医学の常識に反する。まして、一郎は、右側顔面神経麻痺があり、かつ嚥下の神経をつかさどる第七、九ないし一二の脳神経領域に異常があって嚥下障害があったのであるから、唾液の嚥下に障害があり、流涎があるのは当然であり、これを錐体外路症候群の症状と考えることはできない。さらに、一郎には、国立小児病院受診前から流涎があったのであり、投薬後に発現したものではない。

錐体外路障害(医学上正確には錐体外路症候群という。)とは、皮質脊髄路と皮質核線維とを含む錐体路に対し、それ以外のすべての運動に関与する神経路を錐体外路と呼び(そのうち、大脳皮質第五、六、八野という部分は、大脳の頭頂葉の一部である。)、それらによって統括される系を錐体外路系と呼ぶが、この系の障害によって異常な運動を生ずる一連の症候群をいう。この症候群の異常な運動の内容は

(1) 振戦(身体の震え)

(2) 舞踏病(踊りをするときのような手つきをする。)

(3) アテトーゼ(不随意に手足や顔が動いて目的に反した動きをする。)

(4) チック(顔面などが不随意にピクリと動く。)

(5) ミオクローヌス(全身の筋肉がピクンピクンと緊張する。)

等で、すべて不随意性であることが特徴である。この系の全部について障害が発生せず、一部分の障害によっても症状は起こるが、障害部位によって症状は異なるものと考えられている。

(三) 本件の場合、被告岡田が一郎に処方したアレビアチンは一日に〇・〇五グラムづつ二八日分であるが、原告らの主張によると、実際の服用期間は一〇日間であり、服薬総量は〇・五グラムにすぎない。このような極めて少量のアレビアチン投与によって錐体外路障害を引き起こし、永続的に障害を残したという事例は世界に一例もなく、このような量で不可逆的な永続的錐体外路障害が発現することは、医学常識からも考えられない。原告ら主張のアメリカ合衆国の集計表には錐体外路障害の例が四例あげられているが、本件の場合と比較して薬剤の使用量に格段の相違がある(原告ら主張の例は単位の誤読と思われる。)ばかりでなく、これらの報告例はいまだ学会で認められたものではない。

また、クランポールについては、これによって錐体外路障害が発現するということは全く認められていない。

(四) 仮に一郎が錐体外路障害であったとしても、その原因が国立小児病院で投与された抗けいれん剤以外にないとはいえず、他の原因、すなわち以下のような脳の病理学的、形態学的変化が認められる可能性が充分考えられる。

(1) 第五指内彎症等

一郎には、第五指(小指)内彎及び皮膚紋理(手掌紋、足底紋)異常等の変質徴候(小奇形)があり、これらは先天性奇形であって、遺伝性、胎内性の脳性小児麻痺にはかなりの頻度で発現する。脳性麻痺とは、中枢性運動機能障害であり、この中には自動的に筋緊張を支配する錐体外路運動中枢とその径路の損傷により錐体外路症候群の症状の特徴である不随意性異常運動を招くものがある。

(2) 片麻痺

一郎が昭和大学病院を受診したときの症状は明らかに片(半身)麻痺の症状であり、片麻痺は脳病変が一側にあった場合に生ずる。

(3) 発熱後の運動障害

一郎は、昭和四四年一月発熱し、摂氏三九度の高熱が上下して約一〇日間続き、寝たきりの状態が続いて固形物が食べられず、それまで可能であったひとり歩きがその直後から不可能となり、右手の運動麻痺が増強し、指の機能も不自由になり、かつ再び流涎が出現した。一郎のこのような高熱後の運動麻痺の増強等は、急性脳症類似の何らかの脳障害による後遺症の可能性も考えられる。

(4) 顔面神経麻痺

一郎は、国立小児病院を受診する前、既に半身麻痺の症状が発現し、口角や顔面のゆがみが生じており、国立小児病院の初診時においても顔面神経麻痺は顕著であった。小児にみられる顔面神経麻痺の後天的原因としては、脳腫瘍、血管障害、急性小児麻痺等の頭蓋内疾患があげられる。

(五) 一郎は、国立小児病院における薬剤投与の終了後、数年を経過して肺炎で死亡したものであり、その間、一郎が都立江戸川養護学校へ通学し、同校において訓練を受けている状況からみても、国立小児病院における薬剤投与と一郎の肺炎による死亡との間に因果関係がないことは明らかである。

4  国立小児病院における診察及び治療に過失がないことについて

(一) 原告らは、国立小児病院における診察、検査はきわめて簡単かつ粗雑であり、その結果判定にも重大な誤りがあると主張するが、国立小児病院では、前記2のとおり一郎に対し通常大学病院で行う検査と同等又はそれ以上の密度の高い検査を実施しているのであり、検査結果の判定にも誤りはない。

(二) 被告岡田が一郎に抗けいれん剤を投与したのは、一郎には、てんかん発作の臨床症状はなかったが、脳波検査でてんかん性発作性異常波を認めたため、従来からの臨床経験上、半身麻痺の患者にけいれん発作が起きた場合、麻痺の症状が悪化する例が多いため、これを予防するためである。一郎は、その後の脳波検査で脳波に異常を認めなくなったが、これは投与された抗けいれん剤の効果と判断される。

抗けいれん剤の選択についても、最近はアレビアチンやクランボール以外に適当な薬剤が開発され、まずそれらの薬剤を使用する方がよいとされるようになったが、本件の当時はそのような薬剤はなく、脳波からてんかん発作が懸念されるような場合にもアレビアチンやクランポールを投薬することは、当時の医学上も認められていた。

投薬の方法についても、原告らは、被告岡田は一郎の診察は約三か月に一回のみでその間投薬のみを行い、診察日以外は一切患者とは面会せず、相談にも応じなかったと主張する。しかし、国立小児病院が予約診察制をとっていたため、通常診察は予約によって行なわれていたことは事実であるが、診察日以外は一切面会、相談に応じていないということはない。被告岡田は、どの病院にもあるような制約の下で誠心誠意診療にあたったものであり、一郎に関する原告花子からの手紙連絡に対しても電話や面会により必要な指示をしている。

なお、一郎に投与した抗けいれん剤の副作用として考えられるものは、アレビアチンについては貧血その他の血液障害、肝障害、発疹、クランポールについては白血球減少その他の血液障害、肝障害、黄疸、腎障害であるが、被告岡田は、投薬中、血液検査及び肝機能検査等を行い、その副作用に注意し、その安全性を確認しており、そのような副作用の症状は何ら出現していない。

四  被告の主張に対する認否

1  被告の主張1について

(一) 同(一)の事実のうち、歩行開始時一郎に右上下肢運動の異常があったこと、昭和四三年四月転倒したときに頭部を打撲したこと、その翌日から右上下肢運動の障害が一層増大し、開口時の舌突出がみられたこと、同年五月頃までに右手の麻痺も増強し、母指、第二指も不自由となったことはいずれも否認する。一郎の症状は請求の原因2記載のとおりである。

(二) 同(二)の事実のうち、昭和四四年一月インフルエンザに罹患後、独歩困難となり症状がさらに増悪したことは否認する。改善の方向に向かっていた症状がもとに戻ったにすぎない。

2  同2について

(一) 同(一)の事実のうち、一郎が堀誠医長の診察を受けたことは否認する。診察は当初から被告岡田によってなされた。また、診察の結果、咀しゃく、嚥下の協同運動拙劣、舌突出、知能障害、視力障害が認められたことは否認する。

(二) 同(二)のうち、被告岡田が昭和四四年八月二〇日、一〇月一五日、一一月二六日に一郎を診察したことは否認し、検査の結果及び診断内容については不知ないし争う。被告岡田が一郎に、同年九月一七日、一〇月一五日、一一月二六日に同一処方の薬を各二八日分投与したこと、同年一二月八日処方の変更があったことは認めるが、その内容は知らない。投薬後、一郎の症状に著しい改善がないまま経過したのではなく、症状が悪化したのである。

(三) 同(三)の事実のうち、一郎が昭和四五年一月二八日から同年二月二八日まで国立小児病院に入院したこと及び投薬を受けたことは認めるが、投薬の内容は知らない。一郎が受けた検査の内容及び結果は不知ないし争う。なお、投薬は、同年二月二八日の退院時まで続けられた。

(四) 同(四)の事実のうち、同年三月三日、一郎が国立小児病院の診察を受けたことは認めるが、その目的が風邪のためであることは否認する。同月一一日再び被告岡田の診察を受け、投薬を受けたことは認めるが投薬内容は知らない。

(五) 同(五)の事実のうち、一郎が同年三月一一日以降来院しなくなったことは認めるが、その余は不知ないし争う。

(六) 同(六)の事実のうち、中島医師が脳変性疾患を疑ったことは否認する。なお、原告花子が国立小児病院を訪れたのは昭和四七年であり、目的は責任者に会って事実を確認するためであった。

3  同3及び4はいずれも争う。

第三証拠《省略》

理由

一  請求の原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  原告らは、被告岡田の抗けいれん剤の投薬により一郎は錐体外路障害に罹患し、そのために死亡した旨主張するので、以下この点について検討する。

1  まず、一郎の症状及び治療の経過についてみると、《証拠省略》によれば以下の事実が認められる。

(一)  一郎は、ひとり歩きの開始が一歳八か月ないし九か月とやや遅れ、話し始めが三歳と遅く、その後も、原告花子の観察によると、一郎は平衡感覚が悪く、ちょっとしたことにもつまづきころびやすい、片足跳び、跳躍ができない、階段のスムースな昇降ができず、立ったり坐ったりする際に手で補助して行う、全力疾走ができない、運動が不器用で、投げる、つかむ、受ける等の運動はもとより、はさみや箸の使用、手先で折る、はめこむ等の細かい仕事も下手で、衣服の着脱や食事、排尿等の生活面の自立も遅れる、手足の協同動作がスムースに行えず、三輪車も自由に扱えない、リズムを正確にとれないというような発達の遅れがみられた。

(二)  一郎は、昭和四三年四月二〇日頃庭で転倒し、右下顎を三針縫う裂傷を負い、その頃から口もとの筋肉が右に引きつれ、涎が流れ、発語が不明瞭となった。さらに、右手をあまり使わなくなり、親指を掌中に入れて握り、肘から曲げて手をかかげていることが多くなり、右足がつまづき易くなるといった右半身麻痺の症状も現われるようになった。

このため、一郎は昭和大学病院で診察治療を受けることになり、同病院の松井教授は同月二六日一郎を診察し、一郎に、右上肢の強直、言語は小児的で理解するのに少し骨が折れる、歩き方が少しぎこちなく、右足が不安定である等の症状を認め、この診察の結果及び原告らから聞き取った一郎の症状の経過から脳腫瘍を疑い、一郎は、同月二九日から同年七月二七日まで検査のため入院した(このうち、一郎が昭和四三年六月に昭和大学病院で診察を受けたこと及び同病院では脳腫瘍を疑ったことは当事者間に争いがない。)。

一郎は、入院中に頸動脈写、椎骨動脈写、髄液検査、知能検査、脳波検査、眼科検査等の諸検査を受けたが、脳腫瘍の存在を確認することはできなかった。頸動脈写の結果、一郎の前大脳動脈はかなり細いとはされたものの特段の異常所見はなく、知能検査の結果はIQ(知能指数)九〇と正常範囲であり、脳波にも異常を認めなかった。結局、一郎に対しては確定診断を下すことができず、脳腫瘍の疑いも残したまま脳循環障害(右上肢麻痺)とされ、経過観察の趣旨で退院し、通院して治療を受けることとなった。

一郎は、昭和大学病院を退院後、昭和四四年六月に国立小児病院に転院する頃まで二週間毎に昭和大学病院に通院し、眼科検査、脳波検査等の検査と並行して、対症療法としてマッサージを行うほか、ビタメジン(ビタミン剤)、ルシドリール(脳代謝機能改善剤)、ガミベタール(脳代謝調整剤)、エンボール(脳代謝機能改善剤)、イノシー(細胞賦活剤)、カリクレイン(血管拡張剤)、カピラン(脳、末梢血流改善剤)、ホリゾン(精神安定剤)の投与を受けている(このうち、一郎がルシドリール、イノシー、ビタメジンの投与を受けたことは当事者間に争いがない。)。通院期間中の一郎の症状については、昭和大学病院の診療録によると、右上下肢の強直、右手がよく動かせない等の右半身麻痺の症状は継続してみられるものの、歩行がより器用になった、上肢が動かしやすくなった等の症状の改善を窺わせるような記載も一部には認められる。また、原告花子が一郎の死亡後である昭和五三年五月頃作成した一郎覚え書(以下「覚え書」という。)によると、一郎は、昭和四三年九月頃から流涎や口もとの引きつれは徐々に好転し、右手も伸ばして使うようになったが、昭和四四年一月にインフルエンザにかかり、三八、九度の高熱が続き、加えて激しい喘息発作を併発し、これがおさまった時には歩行不能の状態となり、その後再び徐々に歩けるようになった旨述べられており、一郎が昭和四五年一月二八日に国立小児病院神経科に入院した際に、原告花子から聞き取ったものとみられる同病院の神経科診療録にもほぼ同趣旨の記載がある。

(三)  しかし、一郎の症状は必ずしも改善されないため、原告らは、昭和四四年六月四日、国立小児病院で一郎を診察してもらったところ、神経科外来での診察を指示され、同年八月二〇日、同病院神経科外来で被告岡田の診察を受けた。被告岡田の診察の結果は、言語遅滞、右半身麻痺、大脳皮質に問題あり、脳神経領域では七、九、一〇、一一、一二に異常ありであった。被告岡田は、同年九月一七日にも一郎を診察し、言語に構音障害あり、四肢不如意、右半身に痙直性運動麻痺ありとして、その旨診療録に記載している(このうち、一郎が昭和四四年六月に国立小児病院を受診し、被告岡田の診察を受けたことは当事者間に争いがない。)。また、一郎に対して同年七月二五日施行した脳波検査の結果、左側頭頂部にてんかん性発作波が認められた。

以上から、被告岡田は一郎に対し、けいれん発作を予防することを主目的として、同年九月一七日、コゲンチン一・二ミリグラム、硫酸アトロピン〇・一二ミリグラム、ネルボン一・六ミリグラム、クランポール〇・四グラム、エンボール一〇〇ミリグラム×二(錠)、ノイロビタン顆粒〇・五グラム、ATP顆粒〇・五グラムを一日分(三回分服)とする薬剤二八日分を処方し、同年一〇月一五日及び同年一一月一二日にも同様の薬剤を処方した。同年一一月一日に一郎に対し施行した脳波検査の結果では、右中心部にてんかん性発作波が、左側頭部に電気活動抑制波(低電圧波)が認められ、同年一二月八日の診察(同日、被告岡田が一郎を診察したことは当事者間に争いがない。)では、一郎は、顔面神経のうち、舌咽神経、副神経、舌下神経、顔面神経に麻痺があり、発音が下手、流涎が多い、かむのが下手、食事をするのが下手である等、症状の改善がみられず、かえって進行しているように思われたので、被告岡田は処方の変更を試み、一郎に対し、ガミベタール一・〇グラム、ハイロング三〇ミリグラム、パンカルG〇・七グラム、アレビアチン〇・〇五グラム、クランポール〇・三グラム、パントシン二〇〇ミリグラムを一日分(三日分服)とする薬剤二八日分を処分した(このうち、被告岡田が一郎に対しアレビアチン、クランポールを投薬したこと自体及び同年一二月八日に処方の変更があったことはいずれも当事者間に争いがない。)。

(四)  右各投薬中の一郎の症状については、国立小児病院の診療録には以上認定した他には格別の記載はないが、前記原告花子の覚え書によると、次のような薬剤の副作用が同年一〇月頃から生じたとしている。

(1) 平衡感覚失調

足もとがふらつき、まっすぐ歩けない。単なる起居動作でも転倒しやすくなり、手を引いてやらないと危険で不安を覚える。階段の一、二段の昇降さえ不安を訴えるようになる。

(2) 口唇、舌、顎、喉を中心とする異常な運動

一分間に二〇回以上にも及ぶ舌突出が起こり、就寝時を除き一日中無意識に反覆して舌が突き出され、引き込まれる。臥床すると大きく膨脹した舌が喉の奥の方に落ち込むので危険である。顎は舌突出のたびに大きく下に開けられ舌は異常に長く伸びる。舌、唇、喉が意識的に動かせず、咀しゃく、嚥下、吸引がよくできないため、食物はほとんど口から前面に押し出されてこぼれ落ちる。流涎が多くなる。発語障害が起き、舌、唇を使うタ、ナ、ハ、バ、ラ、マ、タ、パ行からまず発音できなくなり、一音ずつ引っ張ったゆっくりした弱い発声となる。口呼吸が非常に下手となる。

(3) 食欲減退、不振

(4) 手足の振戦が強く起こる。

振戦のため、手は細かい仕事はもとより、力を入れる大きな動作も鈍くなり、目的動作がなかなかできなくなる。

(5) 筋肉の弛緩

顔面筋がゆるんでろう面状、仮面状となり、突出しない時の舌はその筋肉の緊張を欠いて厚く長く肥厚し、口中に一杯となる。

(6) 嘔吐感

嘔吐感があり、吐くまでにはいかない時でもゲエッと吐気が強く、以後何かというと簡単に吐くようになる。

(7) 倦怠感、不安感、焦燥感などの精神症状

明朗で人なつこく物事に積極的であった本来の性格は後退し、無気力であったり、反応が鈍化したり、不安や焦燥、動揺などが複雑に表われ、さながら精薄児的な表情、行動を示し、泣いたり母を求めたり、また、ボーッとして植物人間的になったりし、笑いと活気に満ちた性格は全く影をひそめた。

(8) ねむけ

服薬すると睡眠までには至らないのにねむけが続き、だるそうにしている。

(9) 頻尿

神経性頻尿がさらに著しくなった。

一郎は、昭和四五年六月二九日から佼成病院に転院したが、同病院の診療録のうち原告花子から聴取した内容を記載したと思われる既応歴等の項には、薬服用後、歩行障害、言語障害(タ、ナ、ラ行)が悪化した、舌でものを送ることも不能、平衡感覚がなく倒れやすくなる等の記載がある。また、一郎は昭和四四年一一月一日に同友会クリニックの新保修二医師の診察を受けているが、同医師の一郎に対する診断は、右半身の強度の障害があり、四肢の強直性麻痺、舌突出、唾液流出があり、発語不能の状態にあり、介助なくして身のまわりの処置不能、歩行困難の状態にあり、起立はかろうじて可能、また、四肢の筋萎縮が軽度ながら認められ、膝蓋腱反射亢進、バビンスキー反射(+)、脳波検査の結果は、左中央ないし左頭頂部に棘波が頻発し、軽度異常と認められるというものであった。

(五)  一郎の症状が右のようなものであったため、原告花子は一郎の症状を被告岡田の処方した薬剤によるものと考え、昭和四四年一二月一八日から一郎に服薬を中止させるとともに、被告岡田に対し面会を求めたり、手紙を出したりして一郎の症状について精密な診察及び治療を求め、これを受けて、一郎は、昭和四五年一月二八日、検査のため国立小児病院神経科に入院した(このうち、一郎の入院の事実は当事者間に争いがない。)。なお、同月一四日頃に原告花子が被告岡田宛に出した手紙には、一郎は服薬を中止後、涎と舌を出すことが少なくなり、食事ももらさずにできるようになり、発音もはっきりしてきて、このような状態が昭和四四年末まで続いたが、昭和四五年に入ってから再度涎が増量し、だんだんと舌を出すようになり、発音も不明瞭となり、食事がすこぶる下手になり、かむことに力を失い、食事が口から出てきてしまうようになり、また、言葉もわからなくなって従来と全く同じ症状を表わすようになった旨の記載があり、国立小児病院神経科入院時の診療録にもこれと同様の記載がある。

同月二八日の一郎の所見は、声は非常に小さく、よく声が出ない、言語は不明瞭でほとんど聞き取れない、顔貌には軽度の感情鈍麻あり、舌突出、流涎過多、嘔吐反射あり、右上下肢麻痺、特に小指、薬指、中指の不全麻痺、膝蓋腱、アキレス腱反射右側亢進、足クローヌス右側陽性、家族性の第五指彎指症、眼底は両側乳頭充血、境界不鮮明、血管壁白鞘、血管迂曲著明であった。また、国立小児病院神経科の診療録の同月二九日の項には、一郎の運動の症状として、不随意運動はない、右手は肘関節で屈曲しやすく、右下肢は外転し、少しひきずりがちに歩行する右半身麻痺型歩行をし、非常に不安定で右手の振りがあまりなく、右足の趾先をひきずる旨記載されており、日常生活動作の障害の程度としては、ひもを結ぶことができない、箸またはさじで食事をすることが右手ではできない、便所の処置では尻のところに右手を動かすことができない、ワイシャツを着てボタンをとめることができない、ズボンの着脱、靴下をはくことがやや不自由である、片足で立つことができない、歩行がやや不自由である、階段の昇降に手すりを用いるというような事項が記載されている。

国立小児病院神経科では、右のような一郎の症状の原因を発見するため、脳波検査、髄液検査、一般血液検査、生化学検査、眼科検査、内分泌検査、脳血管撮影等の諸検査を行い、脳性小児麻痺などの種々の疾患を考えたものの、確定診断を下すことができないまま一郎は同年二月二八日に退院した。このうち、一郎に対する脳波検査は、同年一月三一日及び同年二月五日の二回行われ、同年一月三一日の検査では右側側頭部及び右側後頭部に電気活動抑制波を認めたが、同年二月五日の検査では異常を認めていない。また、右入院期間中の一郎に対する投薬については、同年一月二九日からクランポール〇・四グラム、ガミベタール一・〇グラム、セルシン二・〇ミリグラム、ノイロビタン顆粒〇・四グラムを一日分(三回分服)とする薬剤が処方されている(この投薬が、原告ら主張のように退院時まで続けられたのか、被告ら主張のように同年二月一六日までであったのかについてはこれを明らかにすることができる確実な証拠がない。)。

(六)  一郎は、同年三月三日、被告岡田の診察を受け、被告岡田は一郎に咳及び胸部に軋音を認めたため、アクロマイシンVシロップ五〇〇ミリグラム、メジコン〇・〇二グラム、アレルギン四ミリグラム、ネオドリン〇・〇三グラム、パンビタン一・〇グラムを一日分(三回分服)とする薬剤五日分を処方している。一郎は、同月一一日に再び被告岡田の診察を受け、総合ビタミン〇・五グラム、トノフォスファン〇・一グラム、セレモン脳代謝促進剤一・三グラム、チレオイド〇・〇一グラムを一日分(二回分服)とする薬剤二八日分の処方を受けたが、原告花子は、服薬により一郎の症状が悪化するとしてこれを短期間服薬させただけで再び服薬を中止し、これ以降は国立小児病院での診察は受けていない(このうち、一郎が同年三月三日及び同月一一日に国立小児病院で診察を受け、同月一一日の診察以降は国立小児病院での診察は受けていないことは当事者間に争いがない。)。

この段階での被告岡田の一郎に対する診断は、診療録によると、大脳機能障害症候群、知能障害、痴呆状態、右側半身麻痺兼右顔面神経麻痺、中枢神経系変性疾患、先天奇形、家族性第五指内彎症及び異常皮膚紋理症、非定型性シルダー病の疑いであった。また、被告岡田は、昭和四五年三月二〇日付で、一郎は脳性麻痺のため国立小児病院で治療中であり、一年間の就学延期が望ましい旨の診断書を発行している。

(七)  原告らは、昭和四五年三月二四日頃、被告岡田の発行した右診断書により一郎の就学猶予を得たが、同年四月から、機能回復訓練のため都立江戸川養護学校に一郎を入学させた。同校の機能訓練記録によると、一郎の運動能力は上下肢ともにすべての面で徐々に低下してゆき、入学当時にはかなりの程度まで可能であった正坐、あぐら等の座る動作、這う、寝がえり等の移動動作、床や椅子等から立ち上がる動作、つかまって立つ、ひとりで立つ、床の物を拾う等の立位動作、ひとりで歩く等の歩行動作、頭の後ろで手を組む、机の上に肘をつく、つかむ、離す、握る、つまむ、押す、さし込む、たたく、投げる等の上肢の動作が、昭和五〇年三月にはほとんどできなくなるまで悪化している。

また、一郎は、新宿脳波クリニックの新保修二医師の紹介で、昭和四五年六月二九日からは佼成病院で診察治療を受けるようになり、同年九月九日から同年一〇月三日までは同病院小児科に入院し、鑑別診断のため血液検査、尿検査、生化学検査、レントゲン検査等の諸検査を受けたが、脳波以外には特段の異常を発見することができず、一時疑われていた筋萎縮症等の筋疾患も否定され、結局、同病院の最終診断は、一郎の症状等から原因不明の脳性小児麻痺であるとされ、さらに経過を観察すべきものとされた。一郎は、退院後も昭和四九年六月一二日まで佼成病院小児科に通院し、右のとおり脳性小児麻痺であると診断された歩行困難又は不能、運動障害、言語障害等の諸症状及びその頃から併発していた気管支喘息に対する治療を受けた。この期間の一郎に対する投薬は、MD散、ビタメジン、グリココール、ルシドリール、コントール、ATP、ルミナール、Lドーパ等であった。

佼成病院に入院又は通院中の一郎の症状については、昭和五〇年一一月四日付で佼成病院小児科の中島春美医師が同愛会病院の中島光清医師に宛てて出した手紙の中では、一郎に対する診断は、脳炎後遺症又は薬剤性のパーキンソニズムであるとされており、佼成病院小児科の診療録中にも、昭和四八年六月頃には薬剤性のパーキンソニズムを疑っている旨の記載があるが、その根拠は必ずしも明らかではない。一郎は、佼成病院小児科に入院していた頃にもパーキンソニズムを疑われ、順天堂大学の楢林教授の診察を受けているが、手術不能とされたほかにはその結果は不明である。また、佼成病院小児科の診療録の昭和四五年九月一七日の項には「錐体外路」、同月二四日の項には「部長廻診、中枢性のものですね、錐体路又は錐体外路?」との各記載がある。

その後、一郎は、昭和四九年九月三日から同愛会病院の中嶋光清医師の診察治療を受けるようになった。同医師の診察治療の内容は診療録が提出されていないため正確なところは不明であるが、同医師が同年一〇月一五日付で作成した診断書には、一郎は錐体外路障害症(微細脳障害症候群後遺症?)であるとし、昭和四九年九月三日初診、今までの経過よりみて、周生期の微細脳障害症候群による前頭部ないし前側頭部の損傷とともに言語中枢脳実質の発育不全に投薬により正常脳実質細胞部位と未発育又は障害脳質細胞部位のアンバランスが出現したと考えられる、なお、当科では今のところ頭部単純X―Pのみの検査ですが、前頭部の指圧痕及びトルコ鞍部位の軽度平低化があり、知能は軽度減少はあるが投薬によりIQ及び言語は出現すると考えられる、なお、肢体のところは今のところ不明であると記載されている。

(八)  国立小児病院での通院を中止した以後の一郎の症状を前記原告花子の覚え書によってみると以下のとおりである。

(1) 昭和四五年三月頃から下肢の関節や筋肉の痛みを訴えることが目立つようになる。日常ではあまりないが、風邪や発熱時には右下肢拇指が上へ強く反りかえり、強烈な痛みを訴え、膝関節や腰関節さらに筋肉にも痛みを訴える。回を重ねるうちには左足にも起こるようになる。

(2) 同年五月頃、新宿脳波クリニックの新保医師からルシドリールの投与を受けるようになってから精神面が徐々に好転してゆき、落ち着きと明るさを見せてきた。しかし、左足には悪化退行のきざしは見えなかったが、右足に力が入らなくなり、右外側へ足首がねじれて思いがけない転び方をするようになり、歩行が少しずつ困難となってきた。

(3) 同年七月頃、機能的退行とともに筋力の衰えは明白であり、また充分な食事ができないことからやせてゆくことが目についてきた。

(4) 同年一〇月頃、単独での長時間の起立や歩行がほとんど難しくなってくる。言語は全く不明瞭となってくる一方、流涎、舌突出、頻尿その他の神経症状は相変わらず激しい。喘息がたびたび起こるようになり、喘息薬の服用開始後は体の緊張がとれて、むしろ緩弛した感じとなり、言語も不明瞭ながら発しやすくなり好調に見受けられるが、連続服用するうちには逆に筋肉に緊張が強く表われてくる。

(5) 昭和四五年から昭和四七年にかけて、一郎は、体力の低下からくる抵抗力の減退のため風邪をひきやすくなった。また、咬筋の不随意のため、歯で口腔内壁、唇、舌を強く咬んでしまい傷をつけることがたびたび起きる。口内炎がひんぱんに起き、虫歯も急速に増加した。覚醒中、無意識に連続して起きる開口舌突出の運動のため、下顎が前方へ押された形となり、顎筋がゆるんで力が弱まったことと相まって不正咬合となった。

(6) 機能訓練の成果が上がらなくなり、現在の身体的機能水準を維持することさえ難しくなってゆき、むしろ、全ての面で退行しつつあった。昭和四七年四月頃の一郎の身体的機能の状況はおおむね次のとおりである。

(ア) 床に坐していること、椅子にかけていることは何ら不安定でなく可能である。

(イ) 片手をつかまえてもらえば立っていることは可能である。机等に体を寄りかからせたり、両手でつかまって立っていることも可能である。

(ウ) 両手を引いてもらうか、手をつないでもらえば、ぎこちなくバランスはとれていないが歩き続けることはできる。歩行になめらかさはない。

(エ) 手指の振戦が目的のある動作に際してはっきり出るが、両手を使って少しは何かができる。左手でスプーンやフォークを持ち、口へ運べるがこぼれることが多い。左手で物をつかみ口に入れることや茶椀、コップを持って飲むことはできる。ゆっくりではあるがカルタを取ること等はできる。

(オ) 両手と膝で床を這い歩くこと、簡単な腕立て伏せでの上腕の屈伸運動はいずれも可能である。

(カ) 左手でクレヨンを使って線を引くことはできる。文字は振戦のため細かくふるえた線で書く。

(キ) 発音は、発音しようとする言葉や内容が聞く側に具体的に分っていれば、それらしく聞こえる程度である。一音一音ゆっくり引き伸ばした話し方であり、笑う、泣く、歓声等は大きな声が出るが、返事は「フー」と出る程度である。

(ク) 寝がえりはできる。床をごろごろ横回りしてゆく、寝ていて上半身を起こす、つかまって床から立ち上がる、つかまってかがんだり立ったりする等の動作はできる。

(ケ) 異常な筋緊張や関節の剛直はまだみられず、姿勢全体にまだごく普通の柔らかさを持っていた。

(7) 昭和四七年五月頃、Lドーパを服用し始めてから次のような異常運動が発現するようになったため、その服用を中止した。

(ア) 左足が股関節から前方に膝を曲げて瞬間的にはね上がる。強い時には大腿部が腹につくくらいまで無意識に突然はね上がり、停止した後ゆっくりもとに戻る。

(イ) 下肢とともに右腕が肩から右後方にねじれながら強く瞬間的に伸展し、下肢がもとに戻るのとともに腕ももとに戻る。

(ウ) 下肢の異常運動とともに右足首の内尖が強くなり、素足で立つ時に右足裏が全面的に床につかなくなってきた。両足拇指は強く上に反りかえり、他の指は足裏側へ強く内屈する形をとる。

(エ) 掌や手指の筋肉は力が入って伸展されながら関節部位ではやや屈曲するような形となり、不随意は高まり力は入らない。伸展を見ないときには、時として反対に強く握りしめ、甲側を軽く叩いてやったり、掌を叩いてやったりすると緊張がほぐれて掌を開く。

(オ) 顔面筋の弛緩や緊張が再び目立ち、精神面での動揺が表情に表われやすくなる。

(カ) 開口舌突出の回数は従来と差異はないが、下顎筋の異常運動はさらに強まった感じで開口のしかたが以前より大きくなり、舌は口腔内に二次的に肥厚を見せてきた。

(キ) 体全体の関節や筋肉に強直がくる。

(8) 昭和四七年一〇月頃、原告花子は、喘息、風邪、解熱等の薬の服用が一郎にその作用機序と全く異って、神経症状を誘発するのを何回も体験したため、一切の薬の服用を中止させた。服薬中止後、精神神経面には顕著な変化、改善はなかったが、全体的に安定した状態が続くようになり、頻尿がおさまった。服薬の中止とは関係なく、右足の内尖は徐々に強くなり、内側への角度を増し、矯正靴をはいても歩行が難しくなってきた。

(9) 昭和四八年頃、下肢の異常運動が回数と強さの点で稍々好転を見せてきた。精神面では明朗さが増し、いたずらなこの期の少年らしさの片鱗も見せながら学校生活を楽しんでいた。体調の落ちているときを除けばおおむね精神的には安定しており、学習なども平均的に理解を示していた。しかし、左手の障害もはっきり表われてきて、脱力もあり、細かい協同動作の能力も落ちてきた。鉛筆を握って書くことは細かいふるえがあって難しいが、瓶や茶椀を左手に持って飲むことはどうにか可能であった。

(10) 昭和四八年八月頃、原因不明の発熱が続き、同年一〇月末頃にようやく平熱となった。喘息が気象条件により起こり、服薬で切り抜けるが、そのたびごとに体力の低下と神経諸症状の復活をみた。

(11) 昭和四八年一〇月頃の一郎の体の状態は次のとおりである。

(ア) 脳神経関係の服薬中止後、強い舌突出はいくらか回数が減少したが、強い緊張による開口は続いていた。

(イ) 食物は細かくくだいて舌の上へうまく入れてもらえば、押しつぶすようにかんで嚥下することはかろうじてできた。

(ウ) 右足の尖足は強くなり、矯正靴で無理に固定すると痛みで泣くようになる。尖足は平常でも六〇度の角度であるが、骨や筋肉の固定化までは進まず、伸ばしてやれば正常の位置まで戻る。

(エ) 右上肢は体側へねじれながら背後方へ強く伸展していることが多いが、大きい関節を使っての動作は緩慢ながらまだ意図的に可能である。しかし、力のコントロールはきかず、小さいもの、柔らかいもの、細いもの等の取り扱い等は困難になってきた。

(オ) 左手は、瓶や茶椀等のつかみやすいものはどうにか意思どおりにつかめるが、スプーン、鉛筆程度のものも取り落としたり、つかめなかったりし、大型の算盤の玉を指先で扱うこともなかなか困難で正確にやり続けられない。

(カ) 左右の手指は、末端の関節では内側に軽く曲がり、掌側の関節では伸展するという形状を示す。

(12) 昭和四九年三月頃には、一郎の体機能の低下はとみに進行の度合いを増して行った。下肢の過伸展は強力に行われ、そのため生活の中で打撲傷、擦過傷、これらに伴ううっ血をしばしば起こした。一方、背筋や腹筋の脱力のためか脊椎を正しい姿勢に維持できなくなって曲げた体型をとる。寝返りははるか以前に不可能となっている。利き腕である左腕が後方へ強く捻伸展するようになったため何の作業もできなくなる。上腕を顔の脇にかかげ、手先をねじり曲げるポーズが出始めた。

(13) 昭和四九年秋頃、一郎の症状は次のとおり一層激烈化した。

(ア) 咀しゃく、嚥下の不随意が強まる。食物を喉にひっかける、咳込む等が起こりやすくなり、細かくしても独力での咀しゃく嚥下が難しくなってきた。

(イ) 後弓反張、体幹の強直、下肢の過伸展等が激しくなる。車椅子や床椅子に座っていても、体を背部へ強く反りかえらせる緊張が起こり、椅子から簡単にずり落ちてしまう。下肢も強く伸展し、右足首の内尖は直角となる。下肢の指の反りかえりや内屈も強くなる。

(ウ) 骨盤のねじりが後弓反張とともに起き、床に寝ていてもかかとで強く床面を押しながら腰を浮かして背柱と腰をねじってゆく。

(エ) 上腕のヘミバリズム起こる。強烈な力で腕が後方へ無意識に伸展し、振り出される。そのため後方にあるものを強打することになる。最初左腕に起こり、二、三か月して右腕に移行した。

(オ) 口腔内や舌の筋肉の異常緊張と開口の制限等によって、口の内壁や舌を強く咬むことが多くなった。

(カ) 神経反射が昂進し、腕の肘関節部で体幹の前面へ向けて不随意な屈曲が起こる。また、開口反射と開口の制限がからみ合い、指を咬んでしまう。

(キ) 様々な姿勢をとってゆく体の緊張をとるには、関節部位を強い力で反対方向へ動かしてやる必要があり、その時関節は強力な抵抗を示した。

(14) 昭和五〇年一月頃から全身的な脱力が起こり、体幹を支持し、頭部を自力で掲げて前方を正視することさえ不可能な脱力となり、胸に深く顎を沈めているか、頭を後方に投げ出しているかの形となる。左足で起立し、体幹と体重を支えていることも不可能となり、体はいつも崩れ落ちてゆく。精神面に抑うつ傾向が明らかとなり、本来の明るさ、積極性は全く認められなくなり、痛覚や精神的問題についても泣くことさえ出来ない状態となった。嚥下機能が全く失われ、自分では全く食べられなくなり、食慾も落ちてきた。自力で排便ができなくなり、以後、浣腸をして排便させた。

(15) 同年三月下旬頃、左眼のみ眼球がゆっくり上にまわって上がってゆき、またもとに戻るという眼球上転発作が起きたが、この発作は一週間ほどでおさまった。

(16) 同年五月頃、一郎は同愛会病院の中嶋医師の投薬を受けたが、服薬するとたちまち頻尿をはじめ各種神経症状が強く再現し、服薬を中止した。一郎は体全体の脱力状態の中で徐々に下肢や上肢に強直が復活してきた。

(九)  一郎は、同年七月二八日頃から風邪気味となり、同年八月二日午後六時頃、東病院に入院し、治療を受けたが、同月三日午前七時一五分頃肺炎のため死亡した。

2  以上認定したところによれば、一郎の症状は、国立小児病院で被告岡田から投薬処方を受けてこれを服用した頃に悪化したものと認められる。しかし、右服薬後の一郎の症状は、その程度はともかくとして、その主なものはいずれも服薬前から生じていたものであり、明らかに服薬後に初めて生じたと思われる症状は、ほとんど見られないこと、舌突出についても、被告らは、昭和四四年九月一七日の診察時に既にこの症状が表われていた旨主張し、原告らはこれを否定しているところ、診療録上は、当時、一郎に舌突出がある旨の明確な記載はないが、脳神経領域の九、一〇、一二に麻痺を認めた旨の記載があるので、このことからすると、既に一郎に舌突出があったとみられないでもないし、少なくともこれに近い症状はあったと推測されること、また、一郎の症状は国立小児病院への通院を止めた後にもかなり進行していることからすると、このような外形的な症状の推移だけで、一郎の症状が国立小児病院における投薬によって生じたものと速断することはできない。

3  原告らは、一郎の国立小児病院受診前の症状は微細脳障害であった旨主張し、国立小児病院での投薬後に発現した錐体外路障害と考えられる一郎の症状の原因は、国立小児病院での投薬以外には考えられない旨主張する。

《証拠省略》によれば、微細脳障害(微細脳障害症候群又は微細脳損傷とも言う。)とは、知能はほとんど正常か正常以上でありながら、いろいろな程度の学習や行動の異常があり、しかも中枢神経機能のかたよりを伴うものをいい、この中枢神経機能のかたよりにより、認知、概念化、言語、記銘、注意の集中、衝動の制御、運動機能の障害のいくつかが組み合わさって現われるものであるとされており、運動、認知、言語等の働きは中枢神経の働きであり、また、行動をコントロールするのも中枢神経が関与するという立場に立って、これらの障害を脳障害として理解するものであり、従来まで明らかな脳障害と考えられてきた脳性小児麻痺や精神薄弱と区別するために微細という語を用いたものであることが認められる。そして、同愛会病院の中嶋医師が昭和四九年一〇月一五日の診断書で一郎を微細脳障害症候群であったと診断したことは前記1(七)記載のとおりであるが、同診断書の記載からも明らかなように、同医師が一郎を診察したのは同年九月三日が最初であり、それ以前の一郎の症状の把握は、原告らからの聞き取りのみによるものと考えられること、同医師が一郎を微細脳障害症候群と診断する根拠は何ら記載されていないことからすると、右診断書だけから、一郎が、その当時微細脳障害(症候群)であったとすることはできず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。

また、原告らは、一郎は昭和大学病院での投薬により治療効果が上がっていた旨主張し、同病院の診療録には一部これを窺わせるような記載があることは前記1(二)記載のとおりである。

しかし、右記載自体断片的であって、右診療録には言葉、歩行は以前と同じといった記載も存することを考えると、これだけから一郎の症状が長期的にも改善の方向にあったとみるべきかは疑問があるというべきであるし、前記1(二)記載のとおり、原告花子の覚え書によれば、一郎は昭和四三年九月頃から症状の改善を見せたが、昭和四四年一月にインフルエンザにかかり、これがおさまった時には歩行不能の状態となり、その後再び除々に歩けるようになったというような状況であり、国立小児病院では、一郎の所見として前記1(三)記載のような症状を認めているのであるから、一郎の症状が、国立小児病院受診前は進行性のものでなく、昭和大学病院での投薬により治療効果が上がっていたとまでは認め難い。

なお、前記1(二)記載のとおり、昭和大学病院では、一郎について当初脳腫瘍を疑ったが、入院検査の結果これを認めるに足りる所見がなく、脳腫瘍の疑いも残したまま脳循環障害とされ、経過を観察するという趣旨で退院し、通院治療を受けることとなったのであるところ、一郎が脳循環障害とされたのは、頸動脈写の結果、前大脳動脈がかなり細いとされたことによるものと思われるが、この診断はその経過からみて確定診断でないことは明らかであるし、昭和大学病院の松井教授の紹介状には脳循環障害の記載はないこと、《証拠省略》によると、国立小児病院は、昭和大学病院で脳循環障害を疑われていたことを原告花子からの聞き取りにより知っていたことが認められるにもかかわらず、国立小児病院では、一郎に対する脳血管撮影の結果、異常を認めず、一郎を脳循環障害であるとは診断できなかったこと、佼成病院でも、一郎を脳循環障害とは診断していないことからすると、これだけから一郎が脳循環障害であったと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。

4  一郎の国立小児病院受診以降の症状について考えるに、佼成病院の中島春美医師が、昭和五〇年一一月四日付の手紙で、一郎の症状を脳炎後遺症又は薬剤性のパーキンソニズムであるとし、同病院の診療録には、昭和四五年九月頃には錐体外路性の運動障害を、昭和四八年六月頃には薬剤性のパーキンソニズムをそれぞれ疑っている旨の記載があることは前記1(七)記載のとおりである。

そして、《証拠省略》によれば以下の事実を認めることができる。

(一)  錐体外路障害(医学上正確には、錐体外路症候群という。)とは、皮質脊髄路と皮質核線維とを含む錐体路に対し、それ以外のすべての運動に関与する神経路を錐体外路と呼び、大脳皮質の第四、五、六及び八野から来る線維を含み、また、大脳基底核、脳幹の神経核(赤核、前底神経核、網様体核)及び小脳から起こる線維を含むが、この錐体外路系の障害によって異常な運動を生ずる一連の症候群をいうものである。

(二)  この症候群の異常な運動の主なものは次のとおりである。

(1) 硬直

錐体外路系の障害による筋トーヌス亢進をいい、錐体路障害は伴わず、臨床的には幾つかの異種の筋トーヌス亢進を含む、パーキンソン病における硬直は可塑性で、受動運動の最初から出現し、筋伸展が終わると消失する。伸筋、屈筋のいずれにもみられるが、屈筋にやや強く、関節の位置により変わることのない持続性の抵抗である。線条体傷害による硬直では、筋トーヌス異常は、股関節屈筋、足回旋筋、腰椎伸展筋、肘関節屈筋、頸部回旋筋によく認められる。安静時ないし受動運動時には目立たないが随意運動中著明に増強し、ついには四肢筋だけでなく、顔面筋、咽頭、喉頭筋等も侵し嚥下障害を生ずる。中脳性硬直では四肢近位筋に強く、伸筋を主として侵し、上肢は伸展し、手は屈内して回内位をとり、下肢は伸展して内転、内旋位をとる。痙縮が断続的に起こり、頭部は後屈する。除皮質硬直では下肢が伸展、内転、内旋して除脳硬直(中脳性硬直)と同様であるが、上肢は前腕を屈曲し、肘は体につけ、手は屈曲位で軽い回内位をとり、後弓反張を伴う。

(2) ジストニア

ある姿勢をとると筋トーヌス異常が出現し、発病初期には安静時に消失する。ジストニアは最も多く躯幹筋に起こり、捻転ジストニア、痙性斜頸を示す。また、四肢筋も躯幹筋と同時又は独立して侵され、ある姿勢をとると随意運動を妨げるような変形をきたす。捻転ジストニアは躯幹、四肢の捻転を示し、起立時、歩行時に著しい。腰部の前彎が強く、胸部の後屈、骨盤の捻転がみられ、上下肢の内転、手の回内が加わる。上肢のジストニアでは、肩の内旋、上腕の内転、肩の挙上、肘の伸展、手の過回内、手首の屈曲、手指の過伸展がみられ、下肢では、下肢の内旋、大腿の屈曲、足の内反尖足位を生じ、足趾は屈曲又は伸展する。

(3) 寡動

随意運動を開始することが困難な状態をいう。

(4) 不随意運動

不随意運動は、筋の一部、一つの筋ないしいくつかの筋群におこる不随意的な収縮をいう。錐体外路系障害による不随意運動としては、振戦、アテトーゼ、舞踏病、ヘミバリズム、ミオクローヌス等がある。

振戦は、体の一部又は全部にみられる不随意な律動性振子運動である。振戦は規則正しい安静時振戦のほかに、運動振戦の一部にみられる大きく比較的不規則な運動も含まれる。

ヘミバリズムは半身に限局する不随意運動で、下肢よりも上肢に強く、上肢全体を侵し、特に近位部に強い。不随意運動は激しく大きく、ベッドに打ちつけて皮下出血、挫傷等を起こす。特徴的な運動要素として、常同的な捻転運動が特に上肢にみられる。睡眠時のみ運動は抑制され、時に消失することもある。顔面筋、項筋、舌、咽頭筋も同時に侵され、構音障害、嚥下障害をみることもある。

アテトーゼは、安静と定位置のない状態であり、遅い奇妙な異常運動で不随意に起こり、仰臥位でもみられ、精神的影響を受けやすく、またある肢位を保とうとしたりある動作をしようとすると増強する。手ではまず手指の過伸展と手首の軽い屈曲回内が起こり、次いで拇指その他の手指の屈曲、手首の強い屈曲と回外をみる。アテトーゼは手を最も侵し、次いで唇、顎、舌、足、頸部の順にみられる。足では、足趾の屈曲が踵の内転、内反とともに起こる。第一趾の背屈とその他の足趾の外転、踵の外転、外反もみられる。唇を前に突き出すとともに、頸部の伸展、舌の挙上が起こり、唇を後方に引っ込めるとともに舌と顎の沈下、頸部の屈曲がみられる。

ミオクローヌスは、一つ又は多くの筋の短かい不随意の収縮で運動を伴うことも伴わないこともある。筋の一部の収縮であることも、またいくつかの筋の同時収縮であることもある。

ハンチントン舞踏病は、速い不随意運動で肢位の固定、停滞がない。しかも筋トーヌスの低下を伴っている。ある姿勢から次の姿勢へと数秒の間に変化する。このような姿勢は全く不規則で予期できない。不適切な不随意運動が円滑に、連続的に行われる。上肢を回内伸展し、手は回内位で開いた姿勢から手首が回外位をとり、手指を屈内する動作への移行が最もよくみられる。顎が下方に下がり、唇は開き、頸部が進展し、唇が後ろに引かれる動作もよく見かける。

シドナム舞踏病は姿勢の突然の変化としてみられ、上肢を前に伸ばしたり、頭の上に挙上する時によく観察される。瞬間的に手指、手首、上肢が屈曲し、内転しあるいは外転する。運動は一、二秒続き、円滑である。

発作性舞踏病アテトーゼは、発作性に、舞踏病アテトーゼ様ないしジストニア様の不随意運動が四肢末端に始まり、全身ないし体の大部分に広がり、もがくような奇妙な肢位を示すが意識消失はなく、多くの場合一分以内に消失する。

(三)  パーキンソン病は錐体外路系疾患の代表的なものである。その症状は、まず片手に軽い振戦と脱力が現われ、しだいに他の手足に広がり、患者は前屈姿勢となり、また、後から押されたような不随意的、加速度的、独特な歩行を示すようになる。数年後には病気はさらに進行し、患者は虚弱となり、栄養不良による衰弱その他の原因により死に至るという経過をたどる。その主症状は、振戦、無動、筋強剛、躯幹及び手足の姿勢異常、反射異常並びに多汗、脂漏、流涎及び嚥下障害等の種々の自律神経障害等である。パーキンソン病の紹介後、パーキンソン病に類似の症状を示す疾患が次々と発見され、これらの症候群をパーキンソニズムと称するようになり、現在では、パーキンソニズムは黒質(中脳にある両側一対の灰白質層で、同側の皮質脊髄路系を通る大脳脚まで背内側に位置している。)と脳基底核、線条体(両側一対で、解剖学的には尾状核、被殻及び淡蒼球に分けられ、尾状核の頭部は内包の線維によって他の二つの核から分離されている。線条体を機能的に分類すれば、系統発生的に原始的な淡蒼球は旧線条体、より発達した尾状核及び被殻を新線条体という。)の障害に起因するものと考えられている。

パーキンソニズムを分類すると、おおむね次のとおりである。

(1) 特発性パーキンソニズム(パーキンソン病)

パーキンソン病の臨床経過は、症状の重症度及び日常生活能力の程度により、次の五期に分けられる。

第一期では、症状は一般に身体の片側に限局され、日常生活能力はやや不自由な程度である。最も一般的な症状は、関連筋肉が弛緩した時に生ずる休止時一側上肢振戦であり、その他、起立時及び歩行時に振戦罹患側と反対側へ躯幹がわずかに傾く、歩行時に罹患側上肢の腕の振りが減少し、肩をやや外転し、肘を屈曲させる傾向が一般にみられる、軽度の筋強剛がみられ、振戦のために上肢の無動の所見がみられる等の症状もみられる。

第二期では症状は両側にみられ、日常生活能力はまだあるが、姿勢及び歩行が侵され始める。患者は、立位及び歩行時に腰を曲げた姿勢となる。躯幹は前傾となり、脊柱、腰、膝及び足首はわずかに屈曲する。指は休止時内転したままで、中手手指及び末梢の指節間関節はわずかに屈曲し、近位性指節間関節は伸展している。手首は普通背側へ反っている。足はわずかに内反足の傾向を示す。全身運動はしだいに緩慢(寡動)となり、さらに寡動が進むと自発活動も欠如してしまう。例えば、歩行時の腕の振り、目のまばたき、手の細かな動き、顔の表情及び姿勢保持のための種々の微細な動き等が少なくなり、患者はほとんど動かないように見える。全体にすべての動きはゆっくりで振幅は少なく回数も少ない。歩行は第一歩の出だしが困難となり、ゆっくりと足を引きずる歩行となる。

第三期では、中等度の一般機能障害、体動緩慢及び起立時や歩行時に初期平衡障害が出現する。後方突進、前方突進が出現し、転倒しやすくなる。さらに歩行はゆっくりで困難となり、時には足が突然床に凍りついたようにしばらく停止してしまう。とくに方向転換時や歩行開始時は歩行は非常に狭く、気取ったような歩きぶりとなる。

第四期では、重症の運動緩慢、筋強剛、加速歩調及び前方突進のため日常生活能力は不能に近い。患者はもはや一人では生活できず、常に監視が必要で、日々の日常生活にしばしば介助を必要とする。振戦はもはや進展することはなく、初期段階よりもむしろ軽い。しかし、筋強剛及び寡動の増強により廃疾化し、すべての動作がゆっくりで不確実なものとなる。ベッドでの寝返りや坐位からの立上がりは困難となる。立位の保持は不安定で、患者は何かにつかまっていないと少し押すと転倒してしまうほど重度の後方突進がみられる。歩行はゆっくりで足を引きずって歩き、加速歩調で、前方突進や後方突進も重症となる。介助がなければしばしば転倒する。手の動作も損なわれ、ボタンがけ、結び、締める動作等の種々の手仕事で繊細な運動機能の連係が困難又は不可能となる。食事器具は何とか扱えるが、食物は食べやすいように特別に用意する必要があり、少量ずつ与えなければならない。

第五期では完全な廃疾状態で起立も歩行も不能となり、完全看護が必要となる。ベッド又は椅子から離れられなくなり、寡動及び筋強剛は高度となる。しかし振戦はほとんどなく、他の臨床所見に比し軽い。その他の随意運動機能もほとんどなくなる。患者はベッドにじっと仰臥し、首は固縮、前屈曲のため枕で支えられることが多い。下肢は股関節でわずかに屈曲内転し、すぼめている。膝もわずかに屈曲し、足は内反尖足の形をとっている。両腕はわずかに外転屈曲し、手首は背側へ伸展し、指は関節拘縮によりしばしばジストニックな異常姿位により変形している。寡動や筋強剛のため、言語も小声でやっと理解できるほど単調である。ただし、意外に早口であることが多い。初期にはやや表情に欠けた顔つきだが、しだいに無表情となり、まばたきもほとんどしない。上眼瞼がかたく引っこむため、じっと見つめているように見える。口はいつも開いており、咬筋力の低下や嚥下障害により常に流涎している。食事摂取が非常に困難で時間がかかるため、しばしば脱水や衰弱がひどい。患者は、呼吸運動の減少や喀出力の弱い咳による気管支肺炎等の感染症の危険にさらされやすく、またいったん感染するとさらに複雑となる。

(2) 脳炎後パーキンソニズム

嗜眠性脳炎後遺症として発症し、生き残った患者の中から発症するが、このタイプでは、慢性に極めて徐々に進行する点が特発性パーキンソニズムと異なる。また、その臨床所見は、多くの患者に眼球運動発作や斜頸を含むジストニー様スパズム等の特発性パーキンソニズムより明らかな神経学的所見を認める。

(3) 医原性パーキンソニズム

フェノチアジン系抗精神薬によって引き起こされ、この種のパーキンソニズムの患者は多く、一般に精神神経科でみられる。臨床的に、医原性パーキンソニズムの症状や徴候はしばしば特発性パーキンソニズムのそれと似ているが、さらに眼球運動発作やジストニー様スパズムも起こることがある。

(4) パーキンソニズム+α

パーキンソニズム症状や徴候は比較的軽くて、中枢神経系の変性症状を伴うことがある。進行性核上性麻痺(スティール、リチャードソン、オルゼウスキ症候群)、オリーブ、橋、小脳萎縮症、シャイ、ドレージャー症候群がこれに含まれる。

(5) 若年性パーキンソニズム

パーキンソニズムの臨床所見のみられる若い患者の鑑別診断は老人患者のそれと異なるので別のグループとして認識するのが妥当である。四〇歳以前の年齢で起こるパーキンソニズムの主な原因は、肝レンズ核変性症(ウイルソン病、進行性レンズ核変性症)であり、他にハレルフォルデン、スパッツ病とハンチントン舞踏病もある。

(6) 続発性(症候性)パーキンソニズム

外傷、虚血、出血、新生物、神経梅毒または結核等の病変によりパーキンソニズムを引き起こすことがあるが、稀にしかみられない。

(7) 偽パーキンソニズム

このカテゴリーには全く異なる疾患が含まれることがあり、動脈硬化性偽パーキンソニズムと良性本態性(家族性)振戦、甲状腺機能低下症、甲状腺機能亢進症、上皮小体機能亢進症、重篤な精神運動抑圧を伴ったうつ病、正常圧水頭症及び種々の脳障害による歩行失調症が含まれる。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。この事実及び細部についてはともかくとして基本的には信用できるとみられる前記原告花子の覚え書に基づく佼成病院受診以降の一郎の症状の推移からすれば、一郎は、佼成病院受診後、遅くとも昭和四八年以降には錐体外路症候群に特徴的な諸症状を示すようになったものと考えられ、佼成病院等で疑われたように、その頃の一郎の症状を錐体外路症候群としてとらえることができるものと言うべきである。

そこで、次に、国立小児病院で投薬を受けている頃の一郎の症状を、錐体外路症候群とみることができるかが問題となる。前記1(四)記載のとおり、原告花子の覚え書によれば、当時、一郎には、平衡感覚失調、舌突出、手足の振戦等の症状が生じていたとされ、右覚え書で述べられている歩行障害が平衡感覚失調に基づくものであるのか、また、手足の麻痺はあったとしても、それとは別に振戦が存在したのかというような点は必ずしも明白ではないが、右覚え書の記載は、国立小児病院や佼成病院の診療録等の記載とも符合し、おおむね信用することができるものと言うべきところ、そこにあげられている症状は錐体外路症候群においても見られる症状であると言える。しかし、国立小児病院神経科の診療録によると、昭和四五年一月二八日の同病院入院時には、一郎には不随意運動はないとされており、その頃の一郎の主な症状は、右上下肢麻痺、顔面神経麻痺、舌突出、発語障害等であって、錐体外路症候群ないしパーキンソニズムの特徴をよく表わしているとみられる昭和四八年以降の一郎の症状とは基本的に異なっていると考えられることからすると、その頃の一郎の症状を錐体外路症候群として理解することは困難であるように思われる。ただ、国立小児病院受診時の一郎の症状と、それ以降の、ことに錐体外路症候群であると考えられる昭和四八年以降の一郎の症状とに何らかの関連を考えられないものではなく、両者を全く別個の原因により生じたものとみるべきであるとする根拠もまた存しないから、国立小児病院受診時の一郎の症状を、錐体外路症候群と考えることもあながち不可能ではないと考えられる。

5  国立小児病院で一郎に対して処方された薬剤の作用について検討する。

(一)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

(1) クランポール(一般名アセチルフェネトライド)、アレビアチン(一般名フェニトイン、フェニールヒダントイン)は、いずれもてんかんにおけるけいれん発作を防止する抗けいれん剤(抗てんかん剤)であるが、その副作用は、クランポールでは、肝障害、腎障害、白血球減少症、再生不良性貧血、血小板減少症、精神障害、歩行失調、眠気、倦怠感、悪心、食欲不振等の胃腸症状、発熱、口渇、めまい、頭重、注意力、集中力、反射運動能力の低下、まれに耳鳴り、胸内圧迫感、尿失禁、全身リンパ節腫脹、不眠、複視、眼精疲労、血圧下降、色素沈着、顔面紅潮、体重減少、熱感、構音障害、流涎、心悸亢進、エトトイン(エチルフェニルヒダントイン、薬品名アクセノン)との併用により妄想等が、アレビアチンでは、血液障害、葉酸欠乏、猩紅熱様又は麻疹様の発疹、水泡性又は剥脱性皮膚炎、全身性紅斑性狼瘡、リンパ腺腫脹、結節性動脈周囲炎、多発性関節症、ときに悪心、嘔吐、便秘等の胃腸症状、肝障害、腎障害、脾腫、スティーブンス、ジョンソン症候群、運動失調、非可逆性の小脳失調、意識障害を含む精神障害、神経過敏、不眠、頭痛、眠気、発熱、眼振、複視、視覚障害、めまい、不安、多動、倦怠感、しびれ感、舌のもつれ、構音障害、排尿障害、長期連用により歯肉肥厚、発毛増加等が報告されている(このうち、クランポール、アレビアチンが抗けいれん剤であることは当事者間に争いがない。)。

(2) クランポールによる錐体外路症候群の副作用の報告はないが、アレビアチンについては次のような報告がなされている。

(ア) 一九六七年、ライマーらは、二三歳のてんかん患者に対し、てんかん性のもうろう状態時に二五〇ミリグラムのジフェニールヒダントイン静注を行ったところ、三〇分後に、両手のバリズム、アテトーゼ様の運動亢進症状を示し、二四時間後には消失したこと及び四四歳の外傷性てんかん患者に対し、一日〇・六グラムのジフェニールヒダントインを投与したところ、約二か月後に四肢の筋律動性運動過多症状を示し、ジフェニールヒダントインの減量後、症状は消失したことを報告している。

(イ) 一九六九年、デイールは、ジフェニールヒダントインの投与により、バリズム、アテトーゼ様の不随意運動症状を示したてんかん患者二例を紹介している。これらの症状は、いずれもジフェニールヒダントインの投与中止後消失している。

(ウ) 昭和五一年九月、大阪労災病院小児科の藤井邦生医師らは次のような例を報告している。一四歳のてんかん患者に対し、アレビアチン〇・三グラム、ルミナール〇・二グラム、ベンザリン四ミリグラム、フェネトライド(クランポール)〇・七グラム、ラグレトール〇・五グラムを投与(その後、薬剤量は減量されている。)したが、けいれん発作を起こしたため入院した。すると、躯幹、四肢に猩紅熱様発疹がみられ、手掌、足底は落屑状態を呈し、手背、足背には一部水泡が形成されるという副作用を呈していたため、アレビアチンの投与を中止し、他剤はそのままにして経過をみていたところ、見当識を失ったもうろう状態は依然持続し、言語は常にどもり、うわ言を言うようになり、次第に構音障害が認められるようになった。また、寝返り、上半身起こしの常同性の多動運動を繰り返した。上肢は絶えず動かし、不随意運動、アテトーゼ様運動を呈し、かつ、運動失調を認めるようになったが、眼振は認めなかった。さらに、幻視、幻聴等の幻覚が出現し、人物誤認、情況誤認が認められ、また、突然考え込み、それを訴えんとしても言語内容に一貫性がなく、支離滅裂となった。入院後一〇日目頃から尿失禁、嚥下障害も生じたが、入院後二週間目頃から各種症状は消失し始め、その後軽快し、退院している。

藤井医師らは、以上の経過からみて、この症状をアレビアチンの神経学的中毒症状と診断しており、アレビアチンをこのまま継続投与しておれば不可逆的脳障害を残していた可能性があったとしている。

(エ) 昭和五五年三月、国立療養所静岡東病院の森山茂医師らは、てんかん患者にジフェニールヒダントインを投与したところ、作嘴、歪顔など不自然な表情筋の運動亢進とともに、頭部、躯幹、四肢を緩慢にねじるといったジスキネジアが数十分ずつ繰り返されたため、ジフェニールヒダントインを中止又は減量したところ、いずれも症状の消失をみた患者三例を報告している。

(オ) アメリカ合衆国保健教育厚生省公衆衛生局食品医薬品局の医薬品副作用ファイルによると、一九七七年一〇月頃までにアレビアチンと同種組成の抗てんかん剤により錐体外路症候群の副作用を引き起こした患者四例があげられている。

(二)  また、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

(1) 一般に、治療薬による錐体外路症状の発現については、主に神経遮断剤又はメジャートランキライザーとして用いられている薬剤、そのうちでも、クロルプロマジン、トリプロプロマジン、チオプロパゼート、パーフェナジン、トリフロペラジン、フルフェナジン等のフェノチアジン系薬物によるものがよく知られており、その症状は次のようなものである。

(ア) アキネジア(無動)

脱力感と筋肉の疲労を特徴とし、何となく元気がなく、感情鈍麻のように見えることがある。日常生活の面でも自発性を欠き、何かするにしてもそれを完成するだけのエネルギーを出したがらない。

(イ) ジスキネジア又はハイパーキネジア(多動)

振戦、ミオクローヌス、跳び上がり、着座、静止の不能、咬痙、顎筋の運動、発語困難、嚥下困難、舌突出、絶えず口をもぐもぐさせたり、唇を尖らせたり、舌なめずりや舌を丸める運動、ときには渋面をつくる等の口唇の異常運動、斜頸及び後頭、眼球上転発作及び注視固定発作、四肢の伸展や捻転の緩慢な運動を示す舞踏病アテトーゼ症候群を生ずる。ひどい時には、弓なり緊張、下肢の過伸展、捻転、けいれんを伴うこともある。この症状を示す患者は不安状態にあり、情動、説得、暗示等の精神作用に特別な過敏性を持っており、軽度な場合には説得や反対暗示で運動障害が抑制されることがある。

(ウ) パーキンソニズム

その症状は特発性のパーキンソニズムよりも脳炎後パーキンソニズムに類似するとされる。顔面は凝固し、脂漏性となり、ときに浮腫様となる。一般に汎性化した筋強剛を伴った軽い屈曲姿勢をとり、姿勢を保持させて運動をできるだけ省こうとする。歩行の際に腕振りをしない前屈した小刻みな歩行を特徴とし、症状が極度に達すると開口制限、咀しゃくの緩慢化、流涎のための摂食困難をきたす。振戦、歯車症状、突進現象、書字障害、構音障害、嚥下困難等もみられる。対応する精神症状は抑うつである。

(エ) アカシジア、タシキネジア(歩き回り)

座ったり寝たりしたままでいることができず、単調のロンド形式で室内を大股に歩き回る。対応する精神状態は焦躁で、不眠を伴い、しばしば狂乱あるいは激越興奮的となる。

(2) 神経遮断剤あるいはメジャートランキライザーによる錐体外路症候群のほか、抗うつ剤、抗てんかん剤、マイナートランキライザー、リチウム塩等による錐体外路症候群の例も報告されているが、その頻度はきわめてまれである。

(3) 薬物性の錐体外路症候群は、その多くが可逆的であり、投薬を中止又は減量することによって消失するが、非可逆的な不随意運動が引き起こされることがあり、これを遅発性ジスキネジア(又は末期錐体外路性不全症候群、特続性錐体外路性多動症、非可逆性ジスキネジア)と称している。

その症状は、舞踏病ないしアテトーゼに似た異常運動で、舌、口、顎に多く表われ、絶え間ない舌の回転と前後左右への運動、それに伴う唇と下顎のくちゃくちゃ咬む、なめる、口をすぼめる、口をふくらませる等の常同的不随意運動を生ずるが、躯幹や四肢に及ぶこともあり、また、斜頸、後頭を呈することもある。ひどくなると、パリズム、ミオクローヌス、捻転ジストニア性症候群を呈する。さらに、この症状は睡眠中に消失し、興奮すると増強する。大部分は会話中に軽くなる。顔面の異常運動は歩行、運動時に観察しやすい。患者の大部分がこの症状を自覚せず、アカシジアや筋硬直を伴うというような特徴を持っている。

遅発性ジスキネジアと器質的な脳病変や身体的治療の既往すなわち、血管障害、糖尿病、脳外傷、脳障害、インシュリンショックないし電気ショック療法等との関連は、当然予想されるところであり、これらの因果関係を主張する報告もみられるが、いまだ確定的なものとはなっていない。薬物の投与量との関係については、必ずしも大量投与例のみに発現するものではなく、また、投与期間との関係についても、一年ないし数年以上の長期持続投与の後に発現する例が多いものの、短期間の投与で症状が発現したり、投与中止後に出現あるいは増強する例があることも知られている。治療については、可逆性の錐体外路症候群と異なり、抗パーキンソン剤は無効であり、最近、パーキンソニズム治療剤として注目されているLドーバも無効であって、かえって症状を悪化させる場合がある。

遅発性ジスキネジアを発現させる薬剤として報告されているのは、主として神経遮断剤であるクロルプロマジン、パーフェナジン、チオリダジン、ハロペリドール、フルフェナジン、プチロフェノン、レポメプロマジン、レセルピン等であり、イミプラミン、アミトリプチリン、ノルトリプチリンといった三環系の抗うつ剤によっても本症が発現したという報告もあるが、マイナートランキライザー、マオ阻害剤、精神刺激剤のみによって発現した例はない。

(三)  クランポール、アレビアチン以外の薬剤の副作用については、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

(1) コゲンチン(一般名メタンスルホン酸ベンツトロピン)は、特発性パーキンソニズムその他のパーキンソニズム(脳炎後、動脈硬化性)、薬物性パーキンソニズムの治療に用いられ、その副作用は、運動失調、倦怠感、手足の知覚異常、口渇、排尿困難、尿閉、眼の調整障害、まれに精神錯乱、幻覚、見当識障害、せん妄、神経過敏、興奮、不安、抑うつ、発疹、フエノチアジン系化合物、三環系抗うつ剤等の抗コリン作用を有する薬剤との併用により腸管麻痺等である。

(2) 硫酸アトロピンは、コリン作働性神経節後線維の刺激効果を遮断する薬剤であり、その副作用は、口渇、嚥下作用、言語障害、皮膚発赤高温乾燥、呼吸脈搏頻数、瞳孔散大等である。

(3) ネルボン(一般名ニトラゼバム)は、催眠作用及び抗けいれん作用を有する薬剤であり、抗けいれん剤として用いる場合には、副作用として傾眠、重度脳障害のある患者に用いた場合、まれに気道分泌過多、嚥下障害を起こすことがある。

(4) エンボール(一般名ピリチオキシン)は、脳代謝、機能改善剤であり、その副作用は、まれに肝障害、光線過敏症、発疹、じんましん、紅斑、かゆみ等の過敏症状、食欲不振、腹部不快感、下痢、口渇等である。

(5) ガミベタール(一般名ガンマアミノベータヒドロキシ酪酸)は、脳機能代謝調整剤であり、その副作用は、眠気、まれに軽度の食欲不振等である。

(6) ハイロング(一般名オキサゼパム)は、不安、緊張、焦躁、激越等の精神症状の除去、抑うつ症状の改善等に用いられる精神神経用剤であり、その副作用は、ねむけ、ふらつき、眩暈、口渇、歩行失調、頭痛、悪心等の胃腸障害、黄疸、浮腫等の症状、まれに言語蹉跌、振戦、精神分裂病等の精神障害者に投与した場合、刺激興奮、錯乱等の奇異反応、大量連用後、投与を急に中止した場合、せん妄、けいれん等の離脱症状、白血球減少症等である。

(7) セルシン(一般名ジアゼパム)は、鎮静作用、自律神経安定作用、筋弛緩、抗けいれん作用を有するマイナートランキライザーであり、その副作用は、ねむけ、ふらつき、眩暈、口渇、倦怠感、脱力感、歩行失調、頭痛、失禁、言語障害、悪心、便秘等の胃腸障害、黄疸、浮腫等の症状、呼吸抑制、頻脈、血圧低下、まれに、振戦、霧視、眼振、失神、複視、多幸症、顆粒球減少症、白血球減少症、発疹等の過敏症状、大量連用後の投与中止により、まれに、けいれん発作、ときに、せん妄、振戦、不眠、不安、幻覚、妄想等の禁断症状等である。

(四)  以上の認定事実から一郎の症状と投薬との関係を考えると、前記原告花子の覚え書による昭和四四年一〇月頃の一郎の症状のうち、歩行障害、流涎、発語障害、食欲減退又は不振、嘔吐感、倦怠感、不安感、焦躁感等の精神症状、ねむけ、頻尿については、クランポールの投与との関連を考えることができる。しかし、これらの症状のうち、歩行障害、流涎、発語障害については、投薬後に初めて生じた症状ではなく、せいぜいその症状が悪化したに過ぎないものであるから、これらの症状の発現とクランポールの投与との因果関係は必ずしも明らかであるとは言えない。また、原告花子の右覚え書によれば一郎に生じたとされる症状のうち、舌突出、舌、唇、喉の麻痺、咀しゃく、嚥下、吸引の困難、手足の振戦については、これに相当するクランポールの副作用の報告がない。

アレビアチンについては、昭和四四年一〇月頃に、一郎に生じたとされる症状のうちには、アレビアチンの副作用として報告されている症状と類似の症状があることはクランポーレと同様であり、さらにアルビアチンの投与により錐体外路症状を引き起こした例が報告されていることも前記のとおりであるが、その投与の開始は、一郎に前記のような症状が生じたとされる昭和四四年一〇月頃から約二か月後の同年一二月八日であり、右各症状の直接の原因でないことは明らかである。

ところで、一郎の錐体外路症状とされる症状の主なものは、国立小児病院での投薬中止後相当経過してから生じているので、右投薬との関連が問題となりうるものであるところ、薬物性の錐体外路症候群のうちには、遅発性ジスキネジアと称され、投薬中止後に症状が出現あるいは増強するものが存在することは前記認定のとおりであり、一郎の症状は、このような薬物性錐体外路症候群ないし遅発性ジスキネジアの症状と類似する点も多く、さらに、前記原告花子の覚え書によれば、一郎については、錐体外路症候群に著効があるとされているLドーパの投与によりかえって症状が悪化したともされている。しかし、遅発性ジスキネジアの原因となる薬剤は、主としてフェノチアジン系の神経遮断剤であって、クランポールやアレピアチンによってこれが生じたという報告はなされていないこと、前記1(八)記載のような国立小児病院への通院中止後の一郎の症状はきわめて多様であり、遅発性ジスキネジアに特徴的な諸症状もみられるが、硬直及び寡動ないしパーキンソニズムに近いと思われる症状もみられ、遅発性ジスキネジアとしては、その症状は異常に重いと考えられること、さらに、遅発性ジスキネジアであるとしても、一郎の症状は、国立小児病院での投薬中止後、著しく悪化し、五年を経過してもさらに悪化の一途をたどっているというのはあまりに異常であり、一郎に対する国立小児病院での投薬は、それほど大量、長時間のものではないと考えられることからすると、右の疑問はより強く感ぜられることからすれば、一郎の症状が、薬物性錐体外路症候群ないし遅発性ジスキネジアの症状と類似する点があるというだけでは、これをクランポールやアレビアチンの投与によって生じたものと認めることはできないものと言うべきである。

なお、同愛会病院の中嶋医師は、一郎を投薬を原因とする錐体外路障害症と診断したことは前記認定のとおりであるが、右診断自体、必ずしも充分な調査に基づくものとはいえないし、これまでの説示に照らし、採用しない。

また、国立小児病院で投与されたクランポール、アレビアチン以外の薬剤についても、昭和四四年一〇月頃に一郎に生じたとされる症状との因果関係は認める余地がないでもないが、クランポールやアレビアチン以上に、国立小児病院での投薬中止後に一郎に出現又は増強した症状との因果関係を認めることのできる証拠は見当らない。

6  以上のとおりであって、これを要約すると、国立小児病院での投薬開始後、昭和四四年一〇月頃に一郎に生じた症状については、これが錐体外路症候群であるかは別として、国立小児病院での投薬との因果関係を肯定する余地がないとはいえない。しかし、投薬の中止後一郎に出現又は増強した症状については、昭和四四年一〇月頃の症状とはその程度のみならず、質的にも相当の差異があって、これを国立小児病院における投薬の副作用により生じたものとすることは困難である。一郎には、国立小児病院受診前から脳疾患を疑わせるような各種の症状が存在しており、その原因は不明であって、この症状が原告らの主張する微細脳障害症候群等のような、錐体外路系を侵さない、非可逆性のものであるとまでは認められず、被告らの主張3(四)記載のように、錐体外路症候群を引き起こす脳の病変が一郎になかったとはいえず(ちなみに、《証拠省略》によれば、脳性麻痺によって錐体外路症候群を引き起こす例があることが認められる。)、一郎の症状の原因を投薬以外に考えられないとすることもできない。

そうすると、原告らが、一郎を死亡に至らしめた原因として、請求の原因2で主張するような一郎の症状と国立小児病院での投薬との因果関係については、証明がないこととなるので、国立小児病院での被告岡田らの一郎に対する検査、診断並びに抗けいれん剤の処方及びその方法の適否について判断するまでもなく、原告らの請求は理由がない。

三  よって、原告らの請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 白石悦穂 裁判官 窪田正彦 裁判官山本恵三は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官 白石悦穂)

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